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80 高知論叢 第94号ク,東芝,オリンパスが続く23。しかし,これらは100万円を超えるような高額製品であるか,比較的低価格(20万円程度)であるものの低画質であったため,1990年代半ばまで市場が大きく広がること....

80 高知論叢 第94号ク,東芝,オリンパスが続く23。しかし,これらは100万円を超えるような高額製品であるか,比較的低価格(20万円程度)であるものの低画質であったため,1990年代半ばまで市場が大きく広がることはならなかった。 以上のように,1970年代前半からスタートした研究開発は,1990年代半ばまで市場における成果を得られないままであった。しかしながら,日本の電機メーカー,カメラメーカー,フィルムメーカーは,電子映像に関する技術を継続的に蓄積することができたのだった。当初,銀塩写真システムの代替を目論んでスタートさせた研究であったが,動画像を扱う家庭用ビデオカメラを経由するなど迂回があるものの,開発活動を継続でき,この技術蓄積を活かした製品展開が次の画素数競争で可能になったのである。(2)画素数競争の導入 繰り返しになるが,DSC 産業における民生用市場の幕開けは,1995年にカシオ計算機が発売した「QV-10」の爆発的なヒットによってもたらされる。ヒット商品となった理由は,(1)パソコン入力装置として売り出したことがパソコンやインターネットの立ち上がりに巧く合致した点,(2)定価65,000円(実売で50,000円を切る価格)で販売した点,(3)液晶モニタを搭載し,その場で撮影した画像を確認できる点といわれている24。 このうち,他社製品が10万円を超える価格設定であったなかで,カシオ計算機が大幅に価格を引き下げることができた理由は,画素数の割り切りがあった。他社製品にはビデオカメラ用の38万画素CCDを用いていたのに対して,カシオ計算機は25万画素のCCD を用い, その上, 汎用CPU で処理できるように読み取る情報量を半分にしていた。その結果,プリントに耐えうる画質を実現できていなかった。それでも,「QV-10」のヒットを受けて,多数の企業が30~40万画素台の製品を低価格化しながら投入し,DSCがより身近なものになっていった25。 こうした流れにあって,1997年にオリンパスは141万画素DSC(一眼レフ)で23 日本カメラ博物館運営委員会編[2007]32-48ページを参照。24 青島・福島[1997]362ページを参照。25 日本カメラ博物館運営委員会編[2007]12-13ページを参照。