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コモンズ形成の原理と現代的課題23成立する5。その規約によれば,放牧期間は4 月上旬から7 月上旬と9 月下旬から11月までの2 回とされ, 資源利用の期間を制限することによる資源の維持ルールが組み込まれていた。ま....

コモンズ形成の原理と現代的課題23成立する5。その規約によれば,放牧期間は4 月上旬から7 月上旬と9 月下旬から11月までの2 回とされ, 資源利用の期間を制限することによる資源の維持ルールが組み込まれていた。また,規約では,草地を組織的に管理する体制も整えられていた。a)牧司をおいて放牧管理に当たらせる,b)放牧牛馬には大字別,個人別の木札をつける,c)盗難防止のために蹄に「烙印」を押す,c)見張人,巡邏人を字毎に組合員の輪番でおくなどの規定がそれに当たる。大正末期になると,駄壁とよばれる牧野の囲いが完成し,この維持や門の開閉のために各集落から駄番とよばれる監視のための要員が大字牧野委員会から輪番で選出されるようになる6。このほか,放牧地が潅木に覆われないように,毎年火入れが行われていた。明治時代には春先になると各集落が一斉に「枯草焼払」を実施したとされる7。草地は単に野草を排他的に採取する場ではない。駄壁で草地を囲い,牛を効率的に監視するとともに火入れやイバラ刈り(牛が食べ残す植物の刈り取り)を通じて,良質な草地が共同作業により形成され,維持管理されてきた。そこには人為的な資源形成,すなわち,ストックの形成がなされていたといえる。(2)過少利用の実態と保全活動の展開終戦直後から,三瓶草地はさまざまな形で国から利用の制約を受けている8。その結果,戦後直後に約1500ha 以上あった野草地面積は767ha にまで縮小したと推定されている。 一連の利用の制限が終了したのちも,放牧頭数の減少には歯止めがかからなかった。図2 は,戦後の放牧頭数の推移をみたものである。この図よれば放牧5 斉藤[4]6 飯國[2]7 東京大学農学部農政額研究室[9]p. 22参照。8 その第1 が入会地の分割である。国は戦時中に1300ha 余りの牧野を演習地として接収したが,終戦直後にこのうちの一部を「緊急開拓用地」へと転換したため,優良な牧野が減少した。1954年になると,三瓶山の山頂部である「おおやま」が林野庁に売却される。その面積は706ha にも上る。GIS を用いた小路らの分析によれば, この時期に野草地のうち137ha が畑地に,865ha が森林にそれぞれ転用されたことになる(小路他[6]p. 849)。