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戦争論の系譜(2) 15臣の権限から独立した。23 この時期には陸軍大臣が総理大臣を兼務し軍政を統括した時期もあった。また国王と陸軍大臣の信任を背景にして人事課長は権限を強化した。1883年以降人事課長の権限は....

戦争論の系譜(2) 15臣の権限から独立した。23 この時期には陸軍大臣が総理大臣を兼務し軍政を統括した時期もあった。また国王と陸軍大臣の信任を背景にして人事課長は権限を強化した。1883年以降人事課長の権限は大臣の権限,統制の範囲外におかれ,1918年憲法改正まで統帥権独立は継続した。この時期を除くと,軍令と軍政が国務大臣の下におかれていた。しかしその後,議会の関与を受けない軍事内局の力を背景にして,再び軍令は国務大臣の副署を必要としないことになった。以上のようなドイツにおける統帥権独立組織の成立は,憲法制定の10年後であった。これに対して日本において統帥権独立組織が設置された年は,憲法に先んずること11年も前であった。日本で憲法が発布された時には,天皇,文官から独立した軍閥の官僚組織がすでに完成していた。この時間差が日独間で統帥権独立組織に相違を生むことにつながった重要な要因であった。憲法成立後に制度化されたドイツの軍事制度は,2 人の参謀本部長が担った。それはモルトケ(1857年から1888年)とシュリーフェン(1891年から1905年)である。ハンチントンは彼らを「理想型の軍人倫理」24 を有すると評した。ハンチントンの評価は,ドイツ軍人は政治家に仕えるという教義を守り,政治と軍事をそれぞれ独自の領域として区別し,両者は密接に関連しているが,彼らは政治的野望をもたなかった。軍部の範囲は軍事問題に限定され,文官と武官の部局が独自のまとまりをなし,軍部は議会への統制権を強めなかった。陸軍は大臣,大臣官房,参謀本部は競争関係にあったが,第一次大戦まで徐々に参謀本部が他を圧するようになった。19世紀末以降のドイツ軍の統帥権は次のような経過をたどる。1890年のビスマルクの死,1888年のカイザーの死とモルトケの引退によって軍の政治への進出の現象がみられた。軍部の独裁は第一次大戦期1914年から1918年に生じ,この間,参謀本部が政治に関与した。ワイマール共和国時代の1918年から1926年,国家は社会集団の支持がなく弱体化した。軍は国家の中の国家となったが,参謀本部は国防大臣の指揮の下にあった。1926年から1933年諸党派の抗争の中23 ドイツの統帥権を,かつて中野氏は「二元的組織」と定義した。中野登美雄 同上書212頁24 ハンチントン『軍人と国家上』原書房 市川良一訳 昭和53年9 月1 日 101頁