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明治太政官制成立過程に関する研究 1 13を公儀に示した後,京において「万機親裁」の意志を最初に述べた。20 この後,二条城にあった太政官は宮中に移された。このこと自体,天皇が太政官で政務を行うことに対応し....

明治太政官制成立過程に関する研究 1 13を公儀に示した後,京において「万機親裁」の意志を最初に述べた。20 この後,二条城にあった太政官は宮中に移された。このこと自体,天皇が太政官で政務を行うことに対応したものであった。摂関家にあった太政官が,二条城にさらに皇居へと移転されたことは,関白,藩主が太政官への介入を排除する象徴的な事であった。この頃,太政官代が設置されていた二条城に皇居造営が計画された。これは天皇が太政官におけるあらゆる政務を総攬することを念頭にしたものであり,この時期以降政務に天皇が直接関わったことを示すものである。新皇居が造営されるまでの間の措置として, 4 月21日太政官代を二条城より皇居に移された。慶応4 年閏4 月21日に政体書が発布され,太政官制が定められたことに対応したものである。以上の経過について『明治天皇紀』には以下のように記されている。「万機を親裁あらせらるゝに当り,皇居と太政官代所在の二条城との距離遠きに過ぐるの故を以て,勅して二条城を仮皇居と為し,新に皇宮を本丸に造営し,太政官を二の丸に建設せしたまふ……二十一日,仮に太政官代を二条城より宮中に移す」21これ以降,宮中と太政官が一体になり,太政官の会議には直接天皇が出席して決済するようになった。この時期における「万機親裁」の意味は太政官において天皇が臨裁し万機を総攬するという事を意味した。この時期の太政官組織は天皇が高官を一覧し,官僚の業務を一瞥できるような小さな組織であった。戊辰戦争における刑罰の決定には必ず天皇が出席した朝議が行われた。賊軍藩主への処分の案件に関して,天皇は一人ずつ呼び出して処分を宣告した。処分の決定は形式的には天皇が決済した。戊辰戦争後における,賊軍派諸侯に対して厳罰を主張する木戸孝允と,寛典にすべきとする二派に朝議が分かれた際20 「二条城に移御して万機を親裁する旨の勅諭を下したまふ……而して万機親裁の暇に文武を講明し,又内外の大勢に鑑み,海陸軍を振興し,列藩を指揮し,外交を刷新して国威を発揚すべしとの旨を諭示」『明治天皇紀第一巻』690頁21 新皇居が造営されるまでの間の措置として,4 月21日太政官代を二条城より皇居に移された。1868年6 月11日(慶応4 年=明治元年旧暦閏4 月21日)に政体書が発布され太政官制が定められたことに対応した。『明治天皇紀第一巻』700頁~704頁