099号

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14 高知論叢 第99号に,天皇は「余敢へて其の人を憎むにあらず」22 として寛典とし,藩主は一人として死罪としなかった。しかしながら天皇が自ら宣告したこの処分も,木戸以外の衆議は寛典としたものであり,天皇は....

14 高知論叢 第99号に,天皇は「余敢へて其の人を憎むにあらず」22 として寛典とし,藩主は一人として死罪としなかった。しかしながら天皇が自ら宣告したこの処分も,木戸以外の衆議は寛典としたものであり,天皇は衆議に従って決定したのであった。明治元年9 月20日,天皇は江戸へ行幸を行い,同10月17日,東京にて「万機親裁」の詔を出した。「万機親裁」の詔が果たした政治的役割は,第一に,五摂家による朝廷支配から下級公家のリーダーシップによる太政官制創設,第二に,下級武士,実務派の太政官制支配によって旧藩主を排除すること,以上の2 つの意義があった。しかし,「万機親裁」は単なるスローガンではなく,天皇があらゆる太政官の会議に出席して最終決済するという天皇臨裁が指向された。その時期は図2 に示すように,行幸や太政官と皇居の位置によって,連続的ではないが,維新直後の時期と明治10年代前半の二つの時期において,政務・軍務に関して天皇臨裁が試みられた。明治維新の日本の国体は,明治元年「万機親裁」23 の詔による復古的革命の所産であったが,「万機親裁」は,勤王精神を時代の潮流とした幕末維新期の日本人のナショナリズムの所産として,何人も否定することができないテーゼであった。しかし,その言葉の意味することは曖昧であり,多様な理解が可能である。また極めて政治的に利用されてきたために,従来,研究者の中でも意見が分かれるところであった。「万機親裁」と,天皇臨裁とは同義ではない。維新前の関白や将軍に代わって,天皇が政務のあらゆる会議に出席して最終決定を行う事が「万機親裁」の体制であるべきであった。しかし,太政官業務の増加と天皇個人の能力に依拠した「親裁」を行う事は不可能であり,奏聞を行って決定する事項,印のみを付して形式的に「親裁」を実施した事にする事など,それぞれ裁可の仕方が分かれてきた。これらすべてが形式的には「天皇親裁」であるが,これらは官僚主導の「天皇親裁」であった。このような「親裁」は「天22 『明治天皇紀第一巻』919頁23 「詔書 詔皇国一体東西同視朕今幸東京親聴内外之政汝百官有司同心」 東北平定し,百官が力を尽くし「公平ヲ旨」として力を尽くす。「臨御万機御親裁被出候就テハ百官有司質清簡易ニ原キ至正公平ヲ旨トシ」明治元年戊辰10月