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明治太政官制成立過程に関する研究 1 15皇親裁派」が目指したものとは次元を異にする政治行為であった。明治維新期に目指した「万機親裁」は天皇臨裁による集権的太政官制をめざしたが,官僚派は実質的な「親裁」を....

明治太政官制成立過程に関する研究 1 15皇親裁派」が目指したものとは次元を異にする政治行為であった。明治維新期に目指した「万機親裁」は天皇臨裁による集権的太政官制をめざしたが,官僚派は実質的な「親裁」を断念し,明治10年代における天皇の職務放棄によって「天皇親裁派」は消滅した。ただし,官僚は天皇を意図的に排除したわけでは決してなかった。西南戦争中の時期において, 官僚は実質的な「親裁」をめざした。それまで独裁的権力を持っていた大久保利通が宮内大臣となり,主導して官僚主導の「親裁」を行うはずであったが,大久保は暗殺された。代わって宮内大臣となった伊藤博文から,ほどなくして明治天皇は奏聞することを拒否した。伊藤ら官僚派は岩倉具視の死と時を同じくして,内閣制度を設置して,太政官制下の大臣による輔弼から,官僚派による集団的輔弼制へと移行させた。太政官政務における天皇臨裁政治は,明治6年5 月,皇居の火災により太政官が皇居から分離された時代によって中断するが,明治10年8 月,再び皇居内に太政官が設置され,「天皇親裁」が宣言された時期に復活する。24皇居が太政官と併設されていた時期においては,実質的にも「天皇親裁」が指向されていたと言いうる。明治初年の時期において天皇は太政官に居住し,したがって毎日政務を直接執務する形式を与えた。朝議への出席も頻繁に行われたことが『明治天皇紀』には記されている。さらに大久保の提言により馬術と学問が日課とされた。東京では馬術は3,8 の日だけとしたが天皇は11月に24 天皇親政運動として表面化する,明治10年代の「天皇親裁期」については後述するところである。伊藤博文は明治10年,以下の事項を上奏し裁可さる。皇居と太政官が炎上したので,「陛下夙トニ維新ノ業ヲ躬ラシ万機ヲ臨裁シ玉フ然ルニ九重深厳奏聴くノ際或ハ未タ細大ヲ悉スコト能ハサル者アリ」「太政官ヲ宮中ニ移シ以テ内閣ノ名ニ称ハシメンコトヲ今宮府処ヲ異にニシ臨御ニ便ナラス宜ク急ニ太政官ヲ宮中ニ移シ以テ内閣ノ名ニ称ハシメ陛下朝ヲ視ルノ地ヲシテ近ク庭?ノ間ニ在ラシムベシ」『明治天皇紀第四巻』232頁  大臣らは博文の奏議を賛成して更に奏上した。「この日太政官を仮皇居に移し仮内閣を御座所に置きたまふ」同書233頁,太政官と宮中の場所を一体化する根拠は仮皇居が手狭となり, 一部旧庁舎を使用していたとするものであったが, 明治6 年(1873)5 月の皇居炎上直後,天皇の政務への関わり方が少なくなったとする,大臣・親裁派の主張に沿ったものである。「天皇親裁」は維新直後の時期と明治10年代前半の二つの時期においてその実質化が試みられたが次章以下に述べるように天皇の職務放棄によってその実質化は終焉した。