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16 高知論叢 第99号は7 日間乗馬を行い,明治10年代にはしばしば側近から苦言を呈されるほど乗馬に興じるようになり,政務に邁進し「親裁之実をあげられん事を」側近から懇願された。天皇臨裁による実質的な「天皇....

16 高知論叢 第99号は7 日間乗馬を行い,明治10年代にはしばしば側近から苦言を呈されるほど乗馬に興じるようになり,政務に邁進し「親裁之実をあげられん事を」側近から懇願された。天皇臨裁による実質的な「天皇親裁」と言える政体はその後,天皇が職務放棄する明治17年末で終わった。翌年の内閣制度設置と太政官制の廃止は実質的な「天皇親裁」の終焉を意味したが,天皇自身が直接政務を担う事が如何に困難であるかが明らかになった。内閣制度成立以降,集団的な官僚の輔弼体制による「天皇親裁」となった。(3)東京奠都と上奏事項明治太政官制は旧関白家から朝廷の政務を天皇に戻したことに意義があった。太政官制下の「天皇親裁」は三條実美と岩倉具視という大臣が輔弼し,官僚派が実務を担う事を前提とした「天皇親裁」であったが,実権は国家財政の実務を掌握する官僚派に移行した。実質的な「天皇親裁」といいうる時期においても,政務を官僚に委任した「万機親裁」であった。天皇への上奏を誰が担うのかを検討すれば実質的な輔弼者が明らかになる。この時期に於ける天皇への上奏は,図4・5 に示した。この時期においては旧藩主,公卿を含む旧体制下の政治家が士族出身者の官僚より上奏数は多かった。官僚派にとって東京奠都は朝廷改革に重要な画期となった。そのねらいは奠都によって江戸が東京とされ,東西両京となったという形式だけではなかった。維新直後大久保利通は,大坂行幸を行ない,大坂に滞在することを提言したが,公卿ら保守派の反対によって行幸を実施した。天皇は大坂に続き東京に行幸し,東京城を皇居と定め東京奠都ノ詔を発した。25従来明らかでなかった,「東京奠都ノ詔」の作成過程に関して,明治天皇の詔書の草稿が佐々木克氏らによって2010年に発見された。重要な点は,明治天皇が政務に携わって最初に出した詔書「東京奠都の詔」の作成過程が,予想されていたとはいえ,位階を超えた新政府首脳の衆議によって行われた事である。25 「朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ」東京奠都ノ詔(明治元年7 月18日)