099号

099号 page 9/122

電子ブックを開く

このページは 099号 の電子ブックに掲載されている9ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
明治太政官制成立過程に関する研究 1 7と朝廷を仕切るようになったことである。岩倉ら下級の公家にとって,大政奉還後の「天皇親裁」の意味するものは,摂関政治を廃棄する事であった。明治維新における「天皇親裁....

明治太政官制成立過程に関する研究 1 7と朝廷を仕切るようになったことである。岩倉ら下級の公家にとって,大政奉還後の「天皇親裁」の意味するものは,摂関政治を廃棄する事であった。明治維新における「天皇親裁」は,摂関政の否定と太政官制の復活を意味した。下級公家にとって「天皇親裁」の建前の意味する帰結は,五摂家による朝廷支配から下級公家のリーダーシップによる太政官制に移行することであった。官僚制が完成するまでの間,岩倉具視,三条実美に近い藩士が,新政府構想を実務的に担う官吏の役割を果たした。以後,太政官制成立期を通じて,実務的役割を担う藩士の間における権力闘争が行われる。大政奉還から戊辰戦争に至るまでの間,新しい官僚機構は形成されず,尾張,越前,安芸,土佐,薩摩の藩士連合組織は砂上の楼閣であった。これ以降,三条実美,岩倉具視による朝廷権力を利用した,薩長倒幕志士の体制が形成される。その骨子は三條実美の側近によって準備されていた。三条実美,岩倉具視は孝明天皇から,ともに一度は朝廷から排除されたが,孝明天皇死後,朝廷の表舞台に復活した。文久2 年,非摂関家である清華家出身ながら,三条実美は攘夷急進派の公卿のリーダーとして公卿の信望をあつめ,長州藩を中心とする兵士数千名が三条らと同行するほど強大な力を朝廷内外に有していた。一方三条より更に下級の公卿ながら,鷹司政通の側近として朝政の関与するようになった岩倉具視は,三条らの急進派とは距離をおきながら,八十八卿烈参事件により公卿の過半数を大きく超える勢力のリーダーとなった。岩倉具視は大久保利通と常時連絡を密にして,薩摩藩をバックとして,大政奉還,倒幕の機会を窺い,諸藩の浪人を数多く側近として抱えた。三条実美も同様であった。三条実実の側近,戸田雅樂は,新政府の職制案なる草案を坂本龍馬に示したことを後に以下のように自伝で述懐した。「予曰く,古は門地卑しく位低きものにして朝政の議に参するものを参議と云ふ。今日は宜しく此主旨を拡充し新たに職制を定め,此等の士人を収攬して朝廷の参議と為すべしと。坂本曰く, 其の職制なるものを聞くことを得んやと予則ち其職制案を草す。」13 戸田雅樂は次の様な新政府人事案を三條実美に示した。「議定13 戸田雅樂「職制案草案」(慶応3 年10月16日)『尾崎三良自叙略伝上巻』中央公論社 昭和51年12月89-91頁