103号

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4 高知論叢 第103号戦時には逐次戦況報告を奏聞し,軍を統帥する大元帥であった。明治初年において親裁が意味した事は,太政官に天皇が毎日のように臨御し,政務を総攬することと理解されていた。ただし,天皇が太....

4 高知論叢 第103号戦時には逐次戦況報告を奏聞し,軍を統帥する大元帥であった。明治初年において親裁が意味した事は,太政官に天皇が毎日のように臨御し,政務を総攬することと理解されていた。ただし,天皇が太政官へ常に臨御し,かつ太政官のすべての会議を御前会議で行うことは,太政官業務が肥大化するにつれて,凡そ現実的でないことは明らかであった。そこで明治10年,上奏,裁可すべきことと,奏聞だけの事項,奏聞さえもしない事項に公文式を変更した。それ自体が親裁の発展形式であり,決して建前だけの親裁としたのではなかった。親裁揺籃期において官僚体制は実際には如何なる経過で成立したのか6。明治18年,太政官は太政官制から内閣制に移行する時,自らの組織を総括する意味を込めて『太政官沿革志』なる文書を,初代内閣総理大臣,宮内卿を兼務する伊藤博文の名前で提出した。従来,太政官職制の画期をこの『太政官沿革志』に依拠してきた。同『沿革志』に副題「三職制沿革」7 と「親政体制」なる文書がある。ただし,その職制沿革と親政体制の変化は修史官によって装飾が施されており,必ずしも実像と一致している訳ではない。『太政官沿革志八』には,明治元年の三職制制定,政体書発布以来,太政官職制は九変したと記されている。旧太政官から新太政官の成立期から廃止まで,実際は職制七変というべきであるが,『太政官沿革志』には太政官職制九変としている。井上毅は明治14年,「維新以来,内閣職制之更正巳ニ七八度ニ及候,皆左遷右移ニ過ギズ」8 とこれを断じたが,太政官職制の変化の裏側には重大な権力闘争の過程が隠されていた。表1 に形式上の「職制九変」を示した。「太政官職制沿革原文」と,それを加筆した「太政官三職職制沿革原書文」9は当時の官僚の視点から整理された,太政官職制の沿革を記した文書である。職制の画期は,実質的に太政官の実権の所在からみた画期ではなく,あくまで6 佐々木克氏は,明治維新期の官僚を,朝臣-維新官僚-明治官僚への移行途上とし,廃藩置県までを維新官僚と定義した。また彼らの性格を断絶,飛躍ではなく,移行であるが,維新官僚としたことは特殊な規定ではないと述べた。佐々木克『志士と官僚-明治を創業した人びと』講談社2001年1 月106~107頁7 『太政官沿革志八-三職制沿革』『太政官沿革志-親政体制』国立公文書館蔵 明治18年8 井上毅「内閣職制意見」『井上毅伝』史料篇一所収9 伊東巳代治文書「太政官三職職制沿革原書文」明治17・18年作成 制度取調局