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明治太政官制成立過程に関する研究 2 7三職制以来,万機親裁の事務は,すでに新しい官僚層によって担われた。以下の人事と職務が『太政官沿革志』による職制第一変である。明治元年,太政官制の職制第一変では,総....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 7三職制以来,万機親裁の事務は,すでに新しい官僚層によって担われた。以下の人事と職務が『太政官沿革志』による職制第一変である。明治元年,太政官制の職制第一変では,総裁を廃し輔相二人を設置した。三條実美,岩倉具視という2人の実力者は公家に配慮したものであったが,同時に彼らの背後にいる旧藩士出身の官僚派の力によるものであった。『太政官沿革志』職制第一変の人事決定がなされる前夜,大久保利通は覚え書き文書を岩倉具視に提出した。明治元年閏4月「岩倉具視公に呈せし覚書」では「三條公ノ東行已ニ決セルヲ以テ関東ニ於ケル措置ニ付キ条項ヲ列挙シ意見ヲ具陳 一, 米穀並金之事 一, 御人撰之事 但於彼地精撰 閏四月十三日」13とある。発表された人事と大久保利通の人事案との相違は山内容堂,大村益次郎,大久保利通だけであった。新参議が軸となって構築した官僚制の確立は官吏公撰から版籍奉還までの間になされた。その間,新太政官制が宣言されてから3年余りの時間を要した。この間は,新官僚達にとって第2の明治維新というべき旧権力との権力闘争の期間であった。新たな官僚層が旧権力から主導権を確立した時期は,職制九変の時期区分を踏まえると,太政官制二変から三変までの時期である。太政大臣は強い権限を有なさい存在であり,輔弼の象徴としての太政大臣の位置は摂関時代から変わることがなかった。維新以後,実務官僚のトップとなる有力参議は旧有力藩士であった。旧藩政時代において各藩の有力藩士は,決して一匹狼ではなく,大部分が藩内グループのリーダーであった。明治以降下級藩士は,各省のトップとして門下の下級藩士を採用した。幕末以降の人脈は,藩主-藩士-門下藩士の関係は,有力公卿(大臣)-旧藩士(参議)-門下旧藩士へと変わった。彼らの藩主への忠義心は幕末においてすでに希薄であり,朝臣へと豹変した。彼らは尊王攘夷派の国学徒であった。旧有力藩士は,維新後,大臣武官の親任官,親補職と文官のそれとは必ずしも同格ではなく,以後の官制において,武官の職制が有意であった。13 大久保利通の人事案は,上等中等 三條実美,岩倉具視 上等 中山忠能,正親町三條実愛,徳大寺実則,中御門経之,松平慶永,鍋島直正,蜂須賀茂韻,山内容堂(以上諸侯公卿)中等 万里小路中納言,宇和島少将 上等 木戸,後藤,廣澤,横井,副島,三岡 中等 大村益次郎,以上藩士,大久保利通自らに対しては記入無し。