103号

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8 高知論叢 第103号となる有力公卿の後ろ盾を利用しつつ,議定-参議-下級官吏という関係を構築し,次第に各省卿として大臣と同格以上となり,やがて参議は自らが大臣になった。新太政官制の発足と相前後して,明....

8 高知論叢 第103号となる有力公卿の後ろ盾を利用しつつ,議定-参議-下級官吏という関係を構築し,次第に各省卿として大臣と同格以上となり,やがて参議は自らが大臣になった。新太政官制の発足と相前後して,明治天皇は大阪に続いて14,2度に渡って東京に行幸し,2度目の行幸後以降,東京城を皇居と定めた。明治元年7月18日東京奠都ノ詔を発した。東京奠都によって江戸が東京とされ東西両京となった15。これは,1868(明治元)年に宣布された。同詔は天皇が政務にあたることを述べた。これ以降,江戸は今後東京と称し,その地に自らが臨んで統治すること,京都との二都制とし,これが東京奠都の端緒となった。この奠都は,復古主義者にとって,神武天皇が橿原奠都の詔にも比肩した意義を持つと,感動を以て迎えられたと『天皇紀』には記されている。天皇の詔の祭文は浪々と天神地神皇神に誓い,千年来の伝統的な宮中祭祀が,御簾裏における天皇神祇であった。但し,天皇は古代の天皇親裁時代においても神事は司るが,政務,軍務を全面的に取り仕切る存在ではなかった。日本の天皇は唐,隋を模した律令時代からの公式令に則り,政務の大部分を委任して,事案によっては最終決済する,それが維新前の天皇の現実の姿であった。しかし,明治維新は天皇親征によって幕府を倒幕し,その結果,親政(親裁)でなければならなかった。親政とは神武以前の神話時代に遡らねばならない。ここに現実政治における親政の困難さと,親政理念と建前の狭間で太政官制時代の官僚は行き詰まる事となった。万機親裁の宣言は,天皇の一存や数名の側近によるものではなく,官軍方の主要な勢力による衆議によって決定された事が明らかになっている。明治天皇が政務に携わって最初に出した詔書が東京奠都の詔であった。佐々木克氏は平成22年夏,東京奠都の詔の草案と,新政府閣僚に同案への意見を求める回覧文書を発表した。この文書は,詔が位階を超えた新政府首脳の衆議によるもので14 維新直後大久保利通は,大阪行幸を行ない,大阪に滞在することを提言した。15 東京奠都ノ詔 明治元年7月18日「朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス 江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地 宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ」