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明治太政官制成立過程に関する研究 2 9あることを示すものであった16。東京奠都の詔17の草案と,新政府閣僚に同案への意見を求める回覧文書がそれである。この時の衆議は,公家や藩主から選ばれた議定だけでなく,....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 9あることを示すものであった16。東京奠都の詔17の草案と,新政府閣僚に同案への意見を求める回覧文書がそれである。この時の衆議は,公家や藩主から選ばれた議定だけでなく,参与である後藤象次郎,福岡孝梯,廣澤兵助,木戸準一郎,横井少南,岩下佐次衛門,大木民兵の花押があった。岩倉具視の名で回覧したことから起案者は大久保利通であろう。この時期岩倉具視の側には常に大久保利通がいた。以上の藩士出身者から,回覧文書には議定である公家諸侯宛に出された。奠都の起案には,公家や藩主から選ばれた議定だけでなく,下級武士が深く関与した。岩倉具視の名で回覧されただけに,岩倉具視の背後にいた大久保利通が起草したものではないだろうか。これ以降,大久保利通が岩倉具視を表に立てて新政府の中の権力闘争に勝利していく。新官僚制に向けた権力闘争は,岩倉具視が東京で執務をしたことによって始まる。明治2年5月15日岩倉具視は議定となり,これより東京で実務する。この時は同時に天皇親政が東京で本格化した時期と重なる。東京奠都は旧勢力や宮中女官を排除する意味もあった。岩倉具視が上京する前からすでに岩倉具視系列の門下閥が確立されており,その派閥を運用した人物は大久保利通,木戸孝允であった。従って官僚の多くは大久保閥,木戸閥といって過言ではない派閥が形成されていた。大久保利通はこの時期の人材登用に関して,「一応本藩エ御懸合」18一応本藩に掛け合ってから決定すべしという,大久保利通の意見書が意味するものは,藩主推薦のはずの貢士も結局,大久保利通等の一本釣りであったことを意味している。16 原文書は広島県廿日市海の見える杜美術館所蔵岩倉具視関係文書から平成22年(2010年)に発見された。同美術館は岩倉具視関係文書を約1,700点所蔵している。連名の旧藩士は後藤象次郎,福岡孝梯,廣澤兵助,木戸準一郎,横井少南,岩下佐次衛門,大木民兵の面々である。大久保利通の名がないことは起案者が岩倉具視の背後にいた大久保利通であることが推察される。花押が明示され,岩倉具視の名で出された回覧文書には中山一位殿, 徳大寺殿, 中御門殿, 土佐中納言殿, 越前中納言殿, 宇和島宰相殿とある。17 詔は明治元年7月17日(西暦1868年9月3日)に宣布。天皇が政務にあたることを述べると同時に,江戸は今後東京と称し,その地に自らが臨んで統治する。京都との二都制とし,東京遷都の端緒となった。18 「諸藩士徴士雇士等被召出之儀 其度々必一応本藩エ御懸合之被仰付候儀 既議事御決定ニハ候得共 御規則被立議行」「岩倉具視公の議案に対する意見書」明治2年正月24日『大久保利通文書3』48頁