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明治太政官制成立過程に関する研究 2 11太政官制二変から三変までの時期において,藩士出身の新官僚層が旧権力の大部分を太政官の主要部局から排除し,太政官の主導権を確立した。明治2年の夏まで,彼ら新官僚層は....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 11太政官制二変から三変までの時期において,藩士出身の新官僚層が旧権力の大部分を太政官の主要部局から排除し,太政官の主導権を確立した。明治2年の夏まで,彼ら新官僚層は手分けして全国諸藩を廻り,版籍奉還を旧諸侯に行わせるべく説得した。これ以降,官吏公撰とその後の権力闘争の過程で岩倉具視,三條実美を除く旧権力の大半を新政府の主要機構,すなわち予算権を差配出来る組織から一掃した。大臣も次第に事実上の閑職となった。太政官制三変以後において権力を掌握した新官僚層は大臣と同様の,あるいはそれ以上の発言権を歳出,歳入に関して有するようになった。天皇は「内閣に於ける参議の権力強大にして,実に参議兼大臣の観」があると語った26。人事採用問題は優れた人物を採用するという建前と同時に薩長土肥,旧藩派閥ごとの権力闘争でもあった。旧藩士出身の高官は,旧公家,旧藩主の力をバックにして,彼らの派閥を形成していった。大臣27は,官僚派閥の中心としての権威と権限を持たず,天皇のみがそれら官僚の派閥横断的な権威を持った権力であった。天皇親裁はその限りで彼らにとっても必要であった。軍を含む機務事項については,天皇に直接上奏しても可とされる記述が明治2年の同職制にあるが,太政官と軍との関係は記されていない。また,天皇による太政官臨御が日常的に行われた時期は天皇が政務,軍務に勤勉である時期に限られたことも太政官の記録には記されていない。『明治天皇紀』に部分的に記録されている天皇の生活の実像は,飲酒や乗馬に興じて勤務怠慢である時が多く,病気と称して職場放棄した時期もあった。太政官に臨御する万機親裁の天皇の存在は政務の障害となり,文字通りの親政は天皇自らの手で放棄された。そのことは次項以下において明らかにする。26 『明治天皇紀』には,天皇は太政大臣,左右大臣に次のように言ったと伝えられている。この言葉は侍補らによる親政運動の中で,大臣を鼓舞し,参議の力を弱めようとした時に述べたと思われる。「従来内閣に於ける参議の権力強大にして,実に参議兼大臣の観ありき,自今以後大臣たる者力めて参議を統御すべしと宣したまへり」明治13年2月『明治天皇紀第五巻』28頁27 内閣職権による旧内閣制度の総理大臣は国務大臣の長とされ,憲法体制の総理大臣より権限が明確であった。ただし,どちらも内閣総理大臣は内閣の首班であり,軍隊組織の末端の長なる位置づけと同様の名称が用いられ,今日まで変わることがない。これは天皇の目線による呼称であり,天皇にとって内閣総理大臣は末端組織の長に過ぎない。