103号

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12 高知論叢 第103号(2)『太政官沿革志』にみる親政内容新政府は,天皇の元服を待って改元したが,その後の天皇は必ずしも高官の意のままには振る舞った訳ではなかった。天皇が成人する過程は,政府内の抗争の過....

12 高知論叢 第103号(2)『太政官沿革志』にみる親政内容新政府は,天皇の元服を待って改元したが,その後の天皇は必ずしも高官の意のままには振る舞った訳ではなかった。天皇が成人する過程は,政府内の抗争の過程であり,天皇親政の位置づけをめぐって太政官が混迷した過程であった。内閣制度と憲法体制は,親裁を憲政の中に位置づけることで,高官の権力闘争に一応の決着をつけることになったが,太政官制時代はその準備過程であった。太政官が自ら編纂した「太政官沿革志-親政体制」28 なる文書において,太政官規則の変化から観た親政体制が記されている。親政体制の変遷は,井上毅に言わせれば右遷左移にすぎないとされたが,後世のわれわれがそれを検討すると,高官の権力闘争の過程と親裁の位置づけを垣間見ることができる。太政官の各時期別に天皇親裁の記述に従って,以下にそれを現代語に直して要説した。また,天皇親裁組織図と年齢,太政官臨御を図1に示した。①明治元年2月 天皇の元服後三職制が制定された。政務は総裁に,軍務を大総督に委任する政体であった。総裁は「宮之ニ任ス」職務は「万機ヲ総裁シ一切ノ事務ヲ決ス」という,旧摂関家と変らぬ位置づけがなされた。摂関家は排除されたが,委任した総裁,大総督は実権があるとは思えない有栖川宮熾仁親王であった。この時期の天皇親裁の実態は無責任体制であった。「明治元年2月3日 天皇は初めて太政官代に臨み群臣と会い,親政と大総督を置くことを議した29。」②明治元年4月 政体書が出され,太政官制度が発足した。同年10月,東京行幸後万機親政詔をだし,天皇は毎日太政官に臨御し政務を総攬し,高官も毎日天皇に候した。六官知事以上の高官が出席する御前会議を時宜に応じて開催し,名実ともに天皇親政が実現した。天皇は戊辰戦争の賞罰やその後の高官暗殺事件の処分に関しても自ら裁決を下した。28 『太政官沿革志-親政体制』国立公文書館所蔵版『明治天皇紀』にも同文書は部分的に引用されている。29 同上書8頁以降を現代語に要約