103号

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14 高知論叢 第103号た。太政官に正院が設けられ,正院議官である参議が各省卿も兼務し,強力な権限を持つ,官僚トップとなった。天皇は省卿に政務を委任した。太政官の政務が多様化して組織が拡大し,天皇は総ての....

14 高知論叢 第103号た。太政官に正院が設けられ,正院議官である参議が各省卿も兼務し,強力な権限を持つ,官僚トップとなった。天皇は省卿に政務を委任した。太政官の政務が多様化して組織が拡大し,天皇は総ての太政官業務への臨御は事実上不可能となった。「明治4年7月29日 太政官制が改定され,正院事務賞程に天皇親政の順序が初めて定められた。即ち,天皇臨御して万機総判する,大臣,納言これを輔弼し,参議これに参与して庶政を奨督する。また各省卿に委任状を渡して卿の職によって天皇の政を分課する「宰臣」として行政の責任を委任した。左右院に議政を委任した。上奏の手続きは従来と変わらない。」⑤明治6年5月 天皇21歳 太政官職制が改定され内閣議官が設けられた。太政官のあらゆる事項は内閣議官の議を経る事とされ,上奏の順序,省の統廃合の権限まで有するようになる35。正院と正院の実務のトップである省卿・内閣議官を兼務する参議の権限がさらに大きくなった。この直後,皇居が火災になり,内閣と仮皇居が設置された赤坂離宮が離れたため,天皇が太政官に出御する回数は毎月4と9がつく日に限られた。それまでは太政官に毎日出御が原則であったが,多い月でも6回であり,暑い季節は出御しなかった。天皇と高官が面会するためには,天皇が内閣に行幸するか,高官がそろって赤坂離宮に参詣する方法がとられた。天皇の行幸は警備上の問題を抱え,省卿と兼務している参議がそろって参詣するためには調整が困難となる。明治6年までと比較すると,高官と天皇の関係が疎遠となったことが,参議分裂,士族反乱に繋がったといわれるようになった。「明治6年5月2日 太政官職制章程,正院事務章程において立法は正院の特権であり,内閣議官の議事によって奏書に允裁の印を受ける。その他総て允裁を乞う奏書は写しをつくり,本帖は内閣議官が連印して太政大臣が印をして允裁を受ける。この親裁の制度は以後,議会開設の準備によって親政の制度が一変した。また,この後,宮城が火災となり,皇居が赤坂離宮に移された。宮城と太政官が全く場所を異にしたので,毎日正院議官が天皇とお目見えすることができなくなった。臨御の便が悪くなったためである。以後参議を35 前掲書28頁