103号

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明治太政官制成立過程に関する研究 2 15はじめ三職が離宮に参詣する。明治6年5月8日離宮に朝八時に参詣した。5月17日,19日,明治7年1月12日には天皇が太政官代に行幸した。以後日時を逐次記入していない。明....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 15はじめ三職が離宮に参詣する。明治6年5月8日離宮に朝八時に参詣した。5月17日,19日,明治7年1月12日には天皇が太政官代に行幸した。以後日時を逐次記入していない。明治7年5月15日 天皇は太政官代に臨御する日時を定めた。今後4のつく日と9のつく日に午前9時30分に門を出て太政官代に出御する事になった。1ヶ月に6回となる。以後明治8年に至るまでこの様に太政官に臨御した。ただし暑い時は取りやめた。また明治9年3月27日になり,4,9の日が日曜日の時は臨幸を取りやめるよう,宮内省から稟議書の申し出があった36。」⑥明治8年4月 元老院が立法を担うものとして正院から独立し,内閣議官が廃止された。しかし,参議と省卿は引き続き兼務し,参議が引き続き政務の実権を掌握する。天皇による太政官臨御は週1回金曜日だけになった。「明治8年4月14日 元老院大審院が設置され,内閣議官の制度が廃止となり,立法は元老院で定め,正院は庶務を差配し,参議が連印,大臣が印をして天皇に允裁の印を受けた。正院職制章程が改正され第一条に「正院は天皇陛下が万機を総裁し,太政大臣が輔弼し,左右大臣,参議は議判参与して庶政を統理する」とされた。第二条立法は元老院会議に議し,行政と区別した。奏書は写しをつくり,本帖は参議連印し大臣鈴印して允裁を受ける。明治9年7月31日 これ以降,4.9の日の正院臨幸を取りやめ,毎週金曜日とする。午前9時30分御出門する37。」⑦明治10年8月 天皇は25歳 伊藤博文の上奏によって,天皇が臨御,万機親裁しないことが政府分裂の要因であるとされ,赤坂離宮に太政官を移転した。西南戦争中には天皇は病気をおして京都,大阪で指揮をとった。東京に帰り,天皇が毎日太政官に臨御し万機総攬するので,公文式上奏案を決定した。内閣で緊要な事項は必ず御前会議で行うように定められた。また,侍補と侍従武官が設置されて天皇側近が強化され,宮内卿人事にも高官(大久保利通/任用直前に暗殺・伊藤博文)が就任した。天皇への教育と,高官との陪食,晩餐が制度化した。「明治10年9月7日 大臣参議連名で上奏する。公文上奏式草案を提出する。その理由は以下の事情による。明治10年8月15日 伊藤博文の奏議によって太政官を皇居に移し,天36 前掲書34頁37 前掲書38頁