103号

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明治太政官制成立過程に関する研究 2 19まで太政官庁舎,内閣庁舎として使用された。参議が分裂した要因が,火災による太政官と宮城の移転により,天皇臨御が少なくなったとされたこと自体,天皇臨御の重要性を参議....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 19まで太政官庁舎,内閣庁舎として使用された。参議が分裂した要因が,火災による太政官と宮城の移転により,天皇臨御が少なくなったとされたこと自体,天皇臨御の重要性を参議は強く認識していたといえよう。天皇臨御が天皇の職務放棄によって途絶えたことを契機にして内閣制度に移行する。天皇と内閣総理大臣,伊藤博文との関係は,機務六条による契約関係となる。このことは決して天皇親裁の終焉ではなく,天皇親裁と官僚との現実的な妥協の過程であり,天皇親裁の新たな段階への発展であったと言えよう。機務六条を結んだ天皇は,以後国事行為にむしろ能動的となった。『太政官沿革志』には記されていない,明治14年以降の親政体制を図1⑨~⑫に示そう。明治18年以降,機務六条によって,天皇は政を拒絶できないこと,また総理大臣の要請が有る場合だけ閣議に出御する事等を総理大臣と契約した。明治22年以降の憲法体制において,天皇は重大事項がある場合にのみ御前会議を開催することになり,太政官制時代初期のように,太政官に毎日天皇が臨御することを原則とした天皇親政時代は終焉した。ただし御前会議が最高の意志決定機関であったことは変わらず,以後も天皇親裁は貫かれていた。⑨ 明治14年以降(天皇29歳:毎日出御原則)⑩ 明治16年以降(天皇は太政官に臨御せず,病気を理由にして宮内卿にも会わない)⑪ 明治18年以降(天皇33歳:総理大臣の要請がなければ閣議に出御しない)天皇大臣参議/ 省卿兼務機務事項軍事宮内卿大元帥大元帥天皇内大臣/ 内閣総理大臣兼務国務大臣機務六条軍事