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明治太政官制成立過程に関する研究 2 21全国を9府,20県,273藩に分け,旧藩士,徴士が知事となった。旧藩主が中小県知事にとどまったのに対して,伊藤博文が兵庫県知事,大木喬任が東京府知事,後藤象次郎が大坂....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 21全国を9府,20県,273藩に分け,旧藩士,徴士が知事となった。旧藩主が中小県知事にとどまったのに対して,伊藤博文が兵庫県知事,大木喬任が東京府知事,後藤象次郎が大坂府知事に就任するなど,旧藩士出身の徴士は旧藩主以上の地位に就いた。かつての下級藩士が同格になることに対して旧藩主は快く思う筈はなかった。新政府における徴士の進出は,旧公卿,有力藩主からの反発を招いた。明治2年7月8日の官制表にはその対立が反映されている。正従1位は空位,正従2位に神祇官伯と左右大臣のみとなり,従8位までの階級となった。そして神祇官伯が最上位となり,太政官左右大臣の上位に位置づけられた。同年の改正では明治2年3月に設置された待詔局が待詔院とされ,有力参議が同学士に任命され,参議を免職となった。待詔局は建言を受理,処理する太政官の機関であったが,待詔院へ配属された大久保利通は天皇から辞令を涙して受け取ったと日記に記している。待詔院は中国官制を模し,詔勅を作成する役割をもった役所であり,階級も正従2位と大臣なみに高位であったが,この人事は有力徴士を排除することを意図していた。後述するように守旧派の意図は藩士出身の反発を招き,翌月8月20日に改正され,太政官左右大臣は,従1位,正2位となり,神祇官伯は従2位に格下げされた41。また待詔院に配置となった徴士は,参議に再任用され,待詔院はその後廃止されその事務は集議院に合併された。明治2年の顛末は,守旧派と官僚派の対立が深刻な事態になる以前に回避され,その結果は官僚派の勝利によって決着したことを意味している。表2に示した官制表における職員階級の変化で,最も重要な変化は武官が文官と分けられたことである42。軍に関する官制は明治5年正月20日,太政官官制表までは文官と同一の官制表に記されていた。同官制表は1等から15等まで41 神祇官の職制は格下げとなり神祇官も教部省となったが,祭政一致は推進され全国の神々の統一が推進された。明治5年正月20日 官制表に神官を入れた。1等を神宮祭主とし,15等まで全国の神々を統括する神祇官とした。42 寺村安道氏は「明治職制官沿革表」によると大元帥・元帥の発祥は明治4年8月であるとし,明治国家の基本制度が,軍令と軍政を分離した統帥権の独立であったと述べていることは正鵠を得ている。「明治国家の政軍関係 政治的理念と政軍関係 」『政策科学10-1』2002年10月