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明治太政官制成立過程に関する研究 2 25士有力者が選任された。旧参与で落選者の中には後に台頭する有力者も含まれていた。官吏公選とその結果における落選自体,旧藩主,公卿達には耐え難い屈辱であった。天皇は,....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 25士有力者が選任された。旧参与で落選者の中には後に台頭する有力者も含まれていた。官吏公選とその結果における落選自体,旧藩主,公卿達には耐え難い屈辱であった。天皇は,前議定で免官したものを小御所に招いて慰労した47。官吏公撰が実施された直後,明治2年6月17日(1869年7月25日),版籍奉還が行われた48。これは藩士出身の参与等が手分けをして全国の旧藩主を説得した成果であった。版籍奉還の実施と時期を同じくして,木戸孝允を中心とする長州派は,大久保利通を中心とする薩摩派と協調して政権を掌握することを約した。木戸孝允は「吾長藩ヲシテ薩藩ト同ク其魁首タラシメンコトヲ願フ因テ大久保利通ト之ヲ協商シ其経画略ホ定マル」49 と述べた。彼らの中には藩主,公卿の存在はなく,天皇の下での薩長官僚派閥が政権を掌握することを宣言した。権力を得た旧藩士は,天皇の詔勅を輔相,議定を通じて自由に差配できた。彼らの意識の中にはすでに旧藩主の存在はなく,旧藩主は実権がない閑職におかれた50。また旧藩主も低い身分の藩士と肩を並べて実務を執る事は不本意であった。旧権力を華族とした上で,政治の実権を奪う事は,中国歴代朝廷がとって来た常套手段を見習ったものであった。維新官僚は数年で藩士-朝臣-維新官吏へと彼らの身分が変化するが,彼らの派閥意識には藩主の存在は薄くなり,すでに旧藩ごとの官僚派閥争いに変化していた。これは明治初年以降,徐々に変化,拡大したものではなく,旧藩士時代においても形成されていた藩内グループが,他藩出身者を包摂して発展した新政府の官僚グループであった。以後,高官の派閥争いは,政策論争を含み,47 同17日天皇は前議定徳川慶勝,浅野長勲,細川護久に出仕の際慰労の言葉をかけた。『明治天皇紀第二巻』明治2年5月118頁48 版籍奉還の奏請「長薩肥土四版籍奉還ノ事」伊藤博文は「猶土地兵馬之権ヲ還スコトヲ為サス……天下ノ大政ヲシテ一斉ニ帰セシメント欲シ土地兵馬ノ権ヲ併セテ奉還センコトヲ請フ」『岩倉公実記中』670頁49 『岩倉公実記中』678頁50 谷干城は明治3年,山内容堂と土佐の関係を次の様に評した。「知事公は只虚名のみなり,容堂公は実際少しも政治には御容喙なしと雖,東京より発する所の事は容堂公に伺を経たるものなれば,土佐にては不得已何事も遵奉す殆ど両政府あり両知事あるか如し」前掲『谷干城遺稿 上』318頁