103号

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26 高知論叢 第103号新政府内の政権の抗争となる。しかし,官吏公撰は,単に意向投票の扱いがなされ,その直後の太政官職制人事にはその結果が反映されなかった。官吏公撰が実施された2ヶ月後,太政官職制変更と人....

26 高知論叢 第103号新政府内の政権の抗争となる。しかし,官吏公撰は,単に意向投票の扱いがなされ,その直後の太政官職制人事にはその結果が反映されなかった。官吏公撰が実施された2ヶ月後,太政官職制変更と人事(第二変)(明治2年7月 左大臣1人 右大臣1人 大納言3人 参議3人)が行われた。民部以下の六省を管轄する官庁として太政官が置かれた。しかし,神祇官が太政官よりも上位に置かれた。太政官より神祇官が上位におかれた時期は,大宝律令以前,神話時代の『日本書紀』神代紀まで遡る。実に神武天皇の即位以前である。明治2年7月の改変では,従来の百官・受領は全廃され,新たに2官6省,待詔院,集議院,宣教使が設置され,政体書体制は変更された。右大臣に三條,大納言に岩倉具視と徳大寺実則,主要官職を皇族と公家が独占し,参議に前原一誠・副島種臣,民部卿に前福井藩主松平慶永が武士階層から選ばれただけであった。木戸孝允・大久保利通・板垣退助らは,散官と見なされた新設の侍詔院学士に任命された。明らかに保守復古派の巻き返しであった。公撰結果を無視した人事を遂行した勢力は,三條実美らが天皇の父親中山忠能らとともに策した人事であった。岩倉具視系の人物を排除し,反近代化,復古主義路線の改革であった。明治2年7月1日 人事に先だって大久保利通は岩倉具視に次のような書簡を送った。「今朝差出候人撰一紙草々輔相エ御廻し被下両公限リニ而明日ハ御裁決被為遊候」51 とあり,これに対して,同日,岩倉具視より大久保利通への書簡では「今朝ハ御苦労ニ存候人撰一紙極内々足下ヨリ輔相小生限リ被差出候義ニ申成シ輔相ヘ廻シ申シ候尤小生出会迄ハ徳卿始ヘモ沙汰無之様ト申置候違約候得共実ハ今日人撰被申談候而モ如何ト右取計仕候」52 とある。天皇の名において保守派が断行した制度改革と人事は,人事権を掌握していなかった旧藩士出身の官僚にとっても従うべきものであった。天皇は大久保利通に対して「小御所出御於 御前拝領被 今度散官ニ被仰付候へ共尚前途御大51 『大久保利通日記二』209頁 明治2年7月1日「岩倉具視公への書簡」52 同上書