103号

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明治太政官制成立過程に関する研究 2 27事ニ付尚更努力イタシ候儀云々 待詔院学士 宣下之一通」53 太刀と書き付けを賜った,恐縮し感涙したと大久保は自ら語っている。大久保利通,木戸孝允ら官吏に影響力を持った....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 27事ニ付尚更努力イタシ候儀云々 待詔院学士 宣下之一通」53 太刀と書き付けを賜った,恐縮し感涙したと大久保は自ら語っている。大久保利通,木戸孝允ら官吏に影響力を持った有力者が閑職に転じたことは,薩長出身の官吏達に一斉に流言が飛び交い,政府が瓦解する事態となった。岩倉具視より三條への書簡では「両氏閑職に被任候以来世論紛々議官解体之姿を相現し実以恐入候畢竟復古之功臣一層御優遇被遊候」54 大久保利通の日記には,木戸一派も不平だが大久保利通が説諭したと記されている。「十六日今朝副島子入来 切ニ忠告承候 最木戸之一派大ニ不平云々之趣承リ候得共 不可動を以説諭」55右大臣三條実美は,官吏の激しい批判によって人事を撤回し,大久保利通,木戸孝允を訪問し,参議に任ずると懇願したが一度は固辞した56。しかし,その後大久保利通,木戸孝允らは参議に就任した。この時以来,三條系列の官吏は,岩倉具視系列の地位が盤石となっていることを認識し,彼らに政府の実権を委ねられるところとなった。明治2年5月,官吏公撰制の実施から,同7月における職制第二変による守旧派による太政官支配の復活とその崩壊,参議官僚制の成立,廃藩置県の政変終焉。その直後岩倉具視使節団が訪欧するが,海外視察が終わるまで,主要な体制,人事の変更をしない旨の約束をした。しかし,留守政府による使節団帰国直前に決定した,征韓論の方針は,四藩参議支配体制の崩壊,征韓論派の追放,士族反乱に繋がった。明治2年に実施された官吏公撰は,太政官において旧藩士が新たな官僚として確立する端緒であったが,守旧派の工作によって木戸孝允・大久保利通・板垣退助らは閑職であった侍詔院学士に任命された。53 同上書50頁54 『大久保利通文書三』225頁55 『大久保利通日記二』52頁 明治2年7月16日,7月20日 参議推薦の内示を辞する。三條実美より「重々御沙汰」54頁「御断申上候」21日 参議要請22日板垣参議受けた。23日大久保利通への参議宣下 8月14日待詔院を集議院合併56 岩倉具視は大久保利通,木戸孝允を参議に推薦,奏上した。22日大久保利通は参議に木戸は病気を理由に一度はこれを固辞した。