103号

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38 高知論叢 第103号に軍事力を持とうとするが,それが削減,解体され警察に移行する。4.明治3年から大村派は国民皆兵による兵卒取り立て構想を具体化させたが,欧州から帰国し軍務の実権を掌握した山縣有朋は時....

38 高知論叢 第103号に軍事力を持とうとするが,それが削減,解体され警察に移行する。4.明治3年から大村派は国民皆兵による兵卒取り立て構想を具体化させたが,欧州から帰国し軍務の実権を掌握した山縣有朋は時期尚早と考え,徴兵規則を試験的部分的に一度だけ試行し,明治4年廃藩置県を断行するために薩長土三藩親兵をも鎮台兵に取り立てた。5.廃藩置県後,国民皆兵の徴兵令が実現し,これに反発した薩摩,土佐の近衛兵は征韓論争後政府から離反した。6.薩長土西南雄藩の兵を中心とした直属軍隊の編成は,旧家臣団の解体にならず,秩禄処分と四民平等にも矛盾するものであった69。本稿の課題は軍制一般を論じることではなく,軍制が一般行政からいかにして独立し,独自に官僚組織として確立した事を検討することである。軍官僚制は文官と関連しつつも,独自に整備された。その限りでは維新政権の軍組織は天皇の元で一般行政から独立した存在であった。君主制の下で,一般行政から軍政が独立する事は,日本が範とした歴代中国王朝も同様であった。戊辰戦争は,徳川慶喜親征の詔を天皇が出したとされることによって決着がついた。維新の前提は天皇が軍の総帥として親征をすることによって実現し,従って維新後も天皇は軍のトップに君臨することは必然であった。新政権の軍は,「文武ノ二権天皇ニ帰ス」70 として,政務とともに兵馬の権を武家から朝廷に返還するという大目的が維新であり,軍事の権限は武官とは別の権限下にあるという共通理解があった。明治初年,兵部省時代において,兵部卿は親王(小松宮彰仁親王,有栖川宮熾仁親王)をトップに据え,他省より一段高い位置付けがなされ,軍は政治とは独立した存在として人事上も位置づけられた。陸軍省が設置されると,復活した山縣有朋が大輔として陸軍の実権を掌握し,陸軍省成立とともに初代陸軍卿となった。しかし,太政官二変から三変までは,軍制に関して大久保利通・岩倉具視派の諸藩兵派と国民皆兵派は「大論議」をしたと大久保利通は日記で述べている。この時期においては,最も影響力がある文官である,大久保利通が軍制に関しても発言をしてきた。しかし,徴兵令が施行されるに及び,軍制は聖域化した。ただし,太政官職制は69 千田稔前掲書 254頁70 伊藤博文兵庫県知事建議「法規分類大全」第一編 明治元年