103号

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明治太政官制成立過程に関する研究 2 39文官任用に関わる事項であり,武官の高官を如何に任用するかについては新政府内で意見が大きく分かれていた。軍内の高官は戊辰戦争の薩長土出身の武官であり,彼らによる維新....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 39文官任用に関わる事項であり,武官の高官を如何に任用するかについては新政府内で意見が大きく分かれていた。軍内の高官は戊辰戦争の薩長土出身の武官であり,彼らによる維新の元勲の功労者間によって高官が任用されていた事は文官と同様である。あくまで軍制論は高級武官以下の一般兵士の徴兵に関する議論である。武官任用制度の枠組みが確立する時期は文官任用より10年以上先んじていた。このことが武官の高官に就いた旧藩士出身の軍高官の地位を不動のものとし,ひいては軍官僚の特権化,軍事費聖域化,統帥権独立を容易ならしめた要因であった。明治元年2月,太政官制以前の三職体制において,最初に総裁局から兵事に関して以下の達がだされた。「総裁局達 兵制之儀 石高に応じ兵数を定め諸侯石高に従ひ兵士を出し交代を以て親兵を置き練習致し候様」71 同年4月において在京諸侯の大藩は150人-200人,中藩100人-150人,小藩25-100の徴兵を新政府は諸藩に求めた。明治2年,弾正台は,兵制,民政ともに天皇の大権を,皇太子,親王に委任するのはよいが,大臣であっても委任することは一時的にすべきであるとする親政の原則が建議された72。明治4年まで薩長土西南雄藩々兵を中心とした直属軍隊が編成されたが,国民皆兵の徴兵令が決定だされ,以後兵制が統一された。これは,結果として山縣有朋ら軍の予算執行権を握った軍政官僚に実権が独占された事を意味し,以後文官が軍制に介入できず,軍は聖域となる道が拓けた。ただし,藩兵を解散し,しかる後に国民皆兵による徴兵を行うのではなく,薩長土西南雄藩の兵を中心とした軍中枢を確立した後に,国民皆兵による陸海軍を編成する道もあり得た筈である。軍成立過渡期における議論は,軍中枢を71 「法規分類大全」兵制門兵制 明治元年72 明治2年11月 弾正台建議 兵馬の権と政務の権限は臣下に委任すべきではないという次のような建議が弾正台からなされた。「兵政二権共主上自ラ御握遊ハサレ候儀ハ申上ルマテモ無之之ヲ皇太子及諸親王ニ属セラレ候様有之候共決シテ之ヲ臣下ニ御委遊ハサレ間敷一時不得已ノコトキハ左右大臣ニ御委任被遊度事」「法規分類大全」兵制門兵制この時期の弾正台には海江田信義,古賀十郎が在職した。