103号

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明治太政官制成立過程に関する研究 2 41外の財政問題を抱えることとなる。明治初年から,軍官僚にとって統帥権独立は軍事費を維持し,聖域化することに主要な目的があった。明治2年6月21日大久保利通は日記に次の....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 41外の財政問題を抱えることとなる。明治初年から,軍官僚にとって統帥権独立は軍事費を維持し,聖域化することに主要な目的があった。明治2年6月21日大久保利通は日記に次のように書いている。「無休日十字参 朝今日兵制一條ニ付大村被召 段々御評議有之 且長土薩三藩精兵被召候義大村益次郎及大論議」76 大村益次郎と大久保利通は23日には大村と吉井,24日には副島種臣と,25日には大村と大論議をしたと日記に記した。この時まで生前の大村益次郎は軍事専門家として際だった評価を得ていた。大村の軍政論は革新的ではあるが,戊辰戦争の功労者として,また際立った精鋭兵をもつ薩長土の親兵の多くが残っていた明治2年までは幅広い支持を得ていなかった77。この時期においては軍務,軍制は文官の影響力を受けていたことになる。大村益次郎は,戊辰戦争での功績により永世禄を賜り,新政府の幹部となり,明治2年軍務官副知事に就任し軍制改革の中心を担った。大村益次郎は軍務官副知事となり,「朝廷之兵制」なる意見書を輔相三條実美に提出した。ここで「皇国之兵制一般ナラザルハ,薩ノ名兵アリ土ノ名兵アリ長ノ名兵アリ,之ヲ廃スル能ハズ,然ルニ朝廷ハ兵ナシ」しかし「来吾年正月ヨリ陸兵ヲ募ル,三年ノ後陸軍常備軍常備兵之形相就ル,五年ノ後陸軍士官成ル 初テ兵制相整フ」78 と述べた。大村益次郎没後山縣有朋によってほぼそのビジョンに従って陸軍と教育,徴兵制度が整備されたが,大村生前の明治二年の「大論議」では,薩長土三藩を中心とした近衛兵とせず「藩兵を外にし農兵を募親兵とする」とした大村の意見は,大久保利通にとって「軍務官見込決而不安心ニ付有名之者被召」79 とされ,大村の意見は容れられなかった。以上のように,大村益次郎は藩兵に依拠せず政府直属軍の創設を図ろうとしたが,不平士族を多く抱える薩摩出身の大久保利通らは薩長土藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとして大村の主張は退けた。これに反発し一度は辞表を提出した大村であるが,軍76 『大久保利通日記二』明治2年6月『日本史籍協会叢書27』所収 昭和2年4月刊46~47頁77 戊辰戦争戦功賞典薩摩 長州の藩主に10万石 土佐4万石 米745,850石 金215,426両78 大村益次郎「朝廷の兵制につき意見書」三條実美文書『日本近代思想体系4』岩波書店所収79 『大久保利通日記二』同上書47頁