103号

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42 高知論叢 第103号務官としての見識が抜群とされ兵部大輔として再び任用される。大村は軍務官として官位は低かったが大久保利通や岩倉具視に直言できる数少ない人物であった。大村は廃藩,廃刀令,徴兵令,鎮台・....

42 高知論叢 第103号務官としての見識が抜群とされ兵部大輔として再び任用される。大村は軍務官として官位は低かったが大久保利通や岩倉具視に直言できる数少ない人物であった。大村は廃藩,廃刀令,徴兵令,鎮台・学校設置など,朝廷直属軍の構想を描いた。大村の死後,山田顕義らは「兵部省軍務ノ大綱」として太政官に提出した。山田顕義は,大阪に募親兵の中心を置こうとした。その理由は,薩摩,土佐の兵が太政官の運営に不満を持ち兵を率いて帰国したことにあり,西南雄藩の士族反乱をこの時期に予期していたことにある。版籍奉還時において皇居防衛軍は長州2大隊に過ぎなかった。諸藩は様々な国の兵制を模した士族兵であった。明治3年8月,プロシア,フランスの兵制を学び帰朝した山縣有朋は,早速天皇にロシア情勢を上奏した。帰朝した月に山縣有朋は兵部少輔に任用された。西郷隆盛を軍政首班,山縣の部下兵部権大丞は西郷従道が任命されたが,西郷隆盛は上京しなかった。明治3年9月25日には兵部省より各藩へ以下の達を出した。この達には山縣の主張が反映している。1万石につき仕官を除き兵員60人とした。続いて明治3年10月兵部省達「徴兵の儀」では,石高に応じ5人を大阪兵部省へ差し出すことを定めた。また徴兵規則を出し,徴兵の要件は20才から30才まで,5尺以上,一家の主人一子,老父母あるは選挙すべからず,というものであった。明治3年12月,山縣有朋は,岩倉具視,大久保利通,川村純義とともに西郷隆盛が率いる薩摩軍の上京を促した。明治3年12月,西郷隆盛は「木戸孝允と協議の上,更に土藩にも勧め,薩長土三藩の兵を以て御親兵を組織す」と述べた。山縣はこれに対して「三藩より献兵して御親兵と為すときは最早何れも藩臣にあらさるに因り…御親兵の名ありて其の実なからん」80 と後年述懐している。西郷隆盛が薩摩軍を動かすにあたり,山縣に問い質したのは兵の費用を拠出するか否か,であった。山縣が説明すると西郷は首肯して土佐に赴き板垣退助と会談し,薩長土軍1万人の上京を約束した。以上のような山縣の談話は,この時期において,兵部省の予算を差配できた人物はすでに山縣有朋であった80 山縣有朋談「徴兵制度及自治制度確立ノ沿革」国家学会『明治憲政経済史論』所収 大正8年4月15日 379~380頁