103号

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明治太政官制成立過程に関する研究 2 43事を物語っている。山縣有朋が帰朝してまもなく,兵部少輔に任用された明治3年8月から明治4年7月に廃藩置県が布かれるまでの間,薩長土三藩による近衛兵が設置されるとと....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 43事を物語っている。山縣有朋が帰朝してまもなく,兵部少輔に任用された明治3年8月から明治4年7月に廃藩置県が布かれるまでの間,薩長土三藩による近衛兵が設置されるとともに,東西両鎮台が設置された。同年8月各藩の藩兵を解除し,全国統一の兵制が敷かれ,諸藩の兵を集めて鎮台を東京,仙台,大阪,熊本などに増設した。この時に採用された兵は旧幕兵,十津川脱走兵,和歌山,大垣,名古屋,富山,大泉,新発田,伊万里その他の旧藩兵であり81,それらによって中央政府の兵を構成された。従って西郷隆盛と板垣退助が率いた薩摩,土佐の上京した近衛兵以外は,長州兵と山縣等によって招集された兵であり,しかも軍費,兵器装備は兵部省が管轄するところとなった。従って廃藩置県以降,近衛兵を含む中央政府の軍は完全に兵部省の管轄下に入ったと見なされる。従って軍官僚主導による中央政府軍組織の成立は明治4年の近衛兵と鎮台の設置時期,従って廃藩置県の時期と同じであるが,逆に廃藩置県の大改革は軍組織の成立を待って断行されたと言える。明治4年(1871年)に徴兵規則の施行によって実行に移されるが,同規則も同年内には廃案となり,このときの徴兵は一度だけで終わった。兵部省の軍財政は軍実務派官僚の手に掌握されていた。西郷隆盛,板垣退助が率いた薩土近衛兵の派兵軍事費は,山縣ら軍事費を差配できる官僚の手に掌握されており,近衛兵以外の鎮台兵は軍官僚が掌握していた。征韓論による政府参議分裂は,軍内における官僚派との力関係を転換しようとした元勲武闘派の反乱であったと見なすことができる。明治3年までは大久保利通ら文官の発言力は軍政のあり方に強く影響を与えていた。武官の独立性が鮮明となるのは,山縣有朋が山城屋事件による影響力低下を克服し,軍主流派としての存在を揺るぎないものとなって以降である。軍高官は山県派と長州反主流派,薩摩派によって占められていた。閉鎖的な軍組織だけに,高官における藩閥支配の構造は文官のそれを上回るものであった。西郷隆盛以外の高官は,軍政を総括する参議には加えられず,輔の官位が軍81 山縣有朋談 前掲書385頁