103号

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44 高知論叢 第103号のトップであった。しかし,軍を掌握した者が新政府の政権を掌握する,と言っても過言ではないほど軍が決定的な力を持つことは事実であった。これ以降,軍は文官の介入を許さぬ存在となっていく....

44 高知論叢 第103号のトップであった。しかし,軍を掌握した者が新政府の政権を掌握する,と言っても過言ではないほど軍が決定的な力を持つことは事実であった。これ以降,軍は文官の介入を許さぬ存在となっていく。その契機は,軍制が薩長土の旧藩士から,兵部省,陸軍官僚によって掌握された明治4年から6年までの時期が過渡期である。すでに明治2年から機務事項は天皇に直接上奏する事になっていた。軍の要職は文官と違い専門職であり,高官人事は固定化された。大村益次郎,山縣有朋等の徴兵,国民皆兵論は,従来軍組織の近代化,中央集権的兵制整備とされ,薩長土を中心とした国軍編成論を封建的・士族的兵制とされてきた。これは後に権力闘争に勝利した陸軍史の影響によるものである。徴兵論,国民皆兵論と旧士族登用論は対立しない論理である。薩長土軍の編成論批判は薩摩,土佐の旧士族軍を排除する目的があった。兵制論には大村益次郎,その後継者,山縣らと西郷派,板垣派の権力闘争であった。徴兵は旧士族登用と何ら矛盾しないはずである。士族を登用しただけでは必要な兵力が余りに不足している。薩長土軍すべて国軍に編成してもわずか1万人にすぎない。下級藩士出身でありながら軍内局の実権を掌握した山縣有朋らにとって,旧藩時代において自らと対等以上である藩士出身者を大量に軍に迎える事は避け,これを極力排除して農民兵を主体にした国民皆兵とする事は当然であった。国民皆兵軍は身分,階級,出身から自由な共同体でなければならなかった。ただし,旧士族と旧藩の紐帯は最早切れており,山縣有朋らは,廃藩置県との関係で軍制を考慮した訳ではなかった82。軍事・軍制論のもう一つの側面は,軍事費を意のままに掌握した軍官僚派中の実務派が,元勲軍人や文官の高官に勝利した権力闘争であったことである。後に靖国軍神となった大村益次郎の遺影を借りた山縣閥の勝利は,同時に統帥権が独立する過程であった。明治5年,兵部省は陸海軍二省となり,兵部省の主導権が山縣有朋に移った後,明治6年(1873年)に徴兵令が制定され,議論は決着した。山縣有朋は大村益次郎の後継者を以て自ら任じ,大村の後継者と称して山縣閥を形成した。明治8年,軍の全権を掌握した山縣有朋陸軍卿は軍制綱領を発布した。陸軍軍衙82 この評価において千田稔『維新政権の直属軍隊』のとは見解を異にする。