103号

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明治太政官制成立過程に関する研究 2 45は六管区鎮台となり,近衛兵は1鎮台と同格の1将官を配置して3,994名となった。新政府における最初の分裂は軍の分裂を含んでいた。軍の分裂によって新政府軍はむしろ強固と....

明治太政官制成立過程に関する研究 2 45は六管区鎮台となり,近衛兵は1鎮台と同格の1将官を配置して3,994名となった。新政府における最初の分裂は軍の分裂を含んでいた。軍の分裂によって新政府軍はむしろ強固となった。明治6年,征韓論によって西郷派と土佐派が下野し,彼らに任用された軍閥も郷里に下野した。特に土佐派は近衛軍の主力であり,彼らとの内乱が明治政権の火種となった。軍は山縣有朋,西郷従道らによって掌握され,反主流派は中正党となって軍主流から離脱する。従来,軍官僚の独立性は統帥権の独立=参謀本部設置との関係で議論されることが多く,統帥権独立は参謀本部が設置された明治11年以降とされることが多かった。しかし,軍官僚の実質的な独立性はそれ以前に成立していた。軍は西南諸藩の軍から,天皇の軍として組織されていた。軍制の独立は軍制確立過程における軍人事の専門職化,並びに武官任用制度と教育制度の独立過程と深く関連している。日本軍の武官独立の傾向を強くした事は,武官任用・教育制度が文官より早期に確立したことと無縁ではない。軍組織の整備は官吏整備の確立より早期に整備された。日本の文官任用制度は明治26年(1893)に文官任用令が制定され,明治32年(1899)文官任用令の改正が行われ,官吏制度が確立された。高等文官試験制度によって,勅任官の多くを高等文官試験合格者が占めるようになり,官僚の政治利用が廃止され,出身を問わず高級官僚に登用されるようになった。それ以前は,明治19年(1886)に高等官官等俸給令,20年(1887)には文官試験試補及見習規則が制定された。武官任用制度の成立は文官任用制度よりはるかに早く,文官の制度より,20年以上前に確立した。軍幹部任用制度と国民皆兵制度早期確立こそ,文官に対して武官が軍の統帥権確立を強く主張できた要因である。士官学校制度の歴史をさかのぼると,明治元年に京都に設置された兵学校が起源である。後に兵学所と改称され大阪に移転して兵学寮となり,明治4年東京に移転した。明治6年徴兵令の施行で国民皆兵による天皇直属軍が編成されたことに続き,1874年(明治7年)に陸軍士官学校条例により,陸軍士官学校が開校された。当初の教育制度は大村益次郎が推奨したフランス式によって,フランス陸軍から招聘した教官が指導し,以後明治10年代に軍制はプロシア式に変更され,1887年(明治20年)にプロシア式の士官候補生制度になる。