103号

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古典派からマルクスへの転回611) なぜ本質としての労働力の価値が転倒して支出労働全体の価格という労賃形態をとるかの説明は,労働力の価値規定の正当性を検証する意義をもつ。労働が価格をもってあらわれるのは....

古典派からマルクスへの転回611) なぜ本質としての労働力の価値が転倒して支出労働全体の価格という労賃形態をとるかの説明は,労働力の価値規定の正当性を検証する意義をもつ。労働が価格をもってあらわれるのは,それが商品とみなされるからである。「ここで労働がなにかある価格をもっているのは,それが商品とみなされるからである。」(Ibid., Ⅲ, S.872)労働が商品とみなされる理由は,物質的財貨のばあい,使用価値そのものが価値をもつ事実にある。労働力商品にあっては,労働が労働力の使用価値であるため,物質的財貨のばあいにならい,労働という使用価値は,価値をもつ商品としてあらわれる。2) 「リカアド氏は,価値は生産に用ひられた労働量に依存する,といふ彼の学説を,一見したところ,脅威する懼れのある難点を,実に巧みに,避けるのである。この原則にして厳密に貫かれるならば,労働の価値はそれを生産するのに用ひられた労働量に依存する,といふことになるのである これは明かに不合理である。従つて,リカアド氏は巧みに論鋒を転じて,労働の価値をして賃銀を生産するのに必要とされた労働量に依存せしめるのである。」(サミュエル・ベーリ[1791-1870]『リカアド価値論の批判』鈴木鴻一郎訳,日本評論社,45ページ,原著1825年刊)ベーリは,本質としての価値が交換価値としてしか現象しないことから,価値概念を否定した点でも,するどい古典派批判の論陣をはった。両者ともに,古典派批判としてはあたっているため,マルクスは,ベーリ評価におおきな紙面をさいている(Kapital,Ⅰ,S. 77, S. 557)。3) 蓄積財源をつくる労働と剰余労働とのとりちがえは,1865年ごろうまれたマルクスの剰余労働概念の転換がみすごされた結果でもある。『資本論』第Ⅰ巻の執筆(1866年1月-1867年4月ごろ)をまぢかにして,ほぼいつの時代にもある蓄積財源や予備財源をつくる労働(Ibid., Ⅲ, S. 827)は,剰余価値の実体として剰余労働の生成と区別されて考えられることになったと推測される。労働者からの生産条件の分離に対応して剰余労働が生成する一方,ぎゃくに,労働者と生産条件との統一が回復されれば,剰余労働は消滅する。「資本主義的生産形態の廃止は,労働日を必要労働だけに限ることを許す。」(Ibid.,Ⅰ, S. 552)4) 「賃労働とその使用との独自な規定性 賃労働は自分と交換される商品の価値を増大させ剰余価値をうみだすという規定性 」(Mehrwert, MEGA,Ⅱ/3・3, S. 1124)。5) 『賃労働と資本』でのエンゲルスによる序論は,労働力と価値法則との関係にかぎった言及にとどまる。「『労働』の価値から出発したかぎり最良の経済学者をさえ挫折させた困難は,われわれが『労働』の価値の代わりに『労働力4 』の価値から出発するやいなや消えてなくなる。」(『賃労働と資本』国民文庫,村田陽一訳,20ページ,圏点 エンゲルス,原著1849年刊)けだし,『賃労働と資本』序論での問題の急所は,古典経済学の破産原因の指摘にあるからである。