103号

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古典派からマルクスへの転回63介的に剰余労働とみなすならば,マルクスの古典派にたいする進歩はおおきくかきけされる。マルクスをしることは,古典派との相違をしることにひとしい。だから,蓄積財源をつくる労働を....

古典派からマルクスへの転回63介的に剰余労働とみなすならば,マルクスの古典派にたいする進歩はおおきくかきけされる。マルクスをしることは,古典派との相違をしることにひとしい。だから,蓄積財源をつくる労働を剰余労働とみなす古典派の見方3)を『資本論』にそのまま機械的に延長すれば,マルクスは古典派にひきもどされる。以上,本節で,蓄積財源をうむ労働を剰余労働とみなせば,とりもなおさず,小商品生産者は剰余価値を創造するという古典派の発想におちいる難題をあきらかにした4)。1) 「資本主義的生産様式は特別な種類の,独自な歴史的規定をもつ生産様式だ。」(Ibid., Ⅲ, S. 885)2) 小商品生産と資本主義的生産の同一視は,個人的所有(=自己労働にもとづく所有)と資本主義的所有(=他人労働の搾取にもとづく所有)とのそれとおなじ事柄に帰着する。「経済学は二つの非常に違う種類の私有を原理的に混同している。その一方は生産者自身の労働にもとづくものであり,他方は他人の労働の搾取にもとづくものである。」(Ibid.,Ⅰ, S. 792)たんなる私的所有(=個人的所有)と資本主義的所有との同一視は,資本主義の基礎上では,社会的分業と工場内分業の混同とおなじである。なぜなら,社会的分業を構成する個々の資本家は,おのおのたんなる商品生産者として相対する一方,工場内分業は,資本家による生産条件の排他的所有をあらわすからである。だから,『資本論』第Ⅰ巻第12章第4節での両者のスミスによる混同批判は,同時に個人的所有と資本主義的所有とのそれへの批判でもある。なお,資本主義的所有は,剰余価値生産のいいかえであると同時に,資本のそれでもある。「資本4 4 ,すなわち他人の労働の生産物にたいする私的所有」(『経済学・哲学手稿』国民文庫,藤野渉訳,51ページ,圏点 マルクス,1844年ごろ執筆)。資本は,剰余価値生産で代表されるからである。3) リカ―ドのばあいも,おなじである。「さてリカ4 4 ー4 ドウ4 4 だが,彼にあってもまた,賃労働と資本は,使用価値としての富を生むための自然的な社会形態としてとらえられ,そのための明確に歴史的な社会形態としてとらえられてはいない。すなわち,賃労働と資本とはまさに自然的なものであ(る)。」(Grundrisse, MEGA, Ⅱ/1・1, S.246, 圏点 マルクス)4) マルクスのばあい,賃労働者だけが剰余価値をうみだすため,賃労働だけが資本主義に独特な生産的労働である。これにはんし,スミスのばあい,単純な商品が剰余価値をふくむため,生産的労働の規定に,商品をつくる労働と剰余価値をうむ労働という二つの異質な契機が混入することになった(『諸国民の富』Ⅰ,大内兵衛・松川七郎訳,岩波書店,313[原]ページ)。