103号

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68 高知論叢 第103号むすび本稿で,古典派からのマルクスへの転回という観点にたち,剰余労働や単純流通にかんする両者の差別性を強調した。『資本論』にかんする旧来のパラダイムは,労働力を商品としての労働にお....

68 高知論叢 第103号むすび本稿で,古典派からのマルクスへの転回という観点にたち,剰余労働や単純流通にかんする両者の差別性を強調した。『資本論』にかんする旧来のパラダイムは,労働力を商品としての労働におきかえれば,古典派の議論と同工異曲である事実に注目してよい。けだし,スミスにあっては,小商品生産者による交換取引を始点として,分業の発展によって剰余労働が本格的にうまれるしくみがとかれる構成をなし,商品としての労働を労働力に転換すれば,小商品生産者による単純流通から労働力商品の登場するあたらしい生産関係への展開という従来の考え方にころもがえすることになるからである。そのいみで,先行研究の一部に根づよく存在する剰余労働や単純流通にかんする見解は,古典派の学説の再版だとおもわれる。労働力商品の承認をのぞけば,古典派経済学からの『資本論』の転回は,いまだ十分には消化されていない。おもうに,『資本論』研究のもつ宿弊は,ひっきょう,剰余価値が前貸しされた価値の創造物だというマルクスの発見の看過に起因する。もし,まっとうに「剰余価値を生産する価値4 4 」(Kapital, Ⅱ, S. 35,圏点 頭川)としての資本概念をふまえるならば,独立生産者は,生産条件をうしなうのに対応して剰余労働を支出することになる。それと同時に,剰余価値生産の基礎は,全生産要素が商品として入手される単純流通であるという事柄もおのずからあきらかになる。「資本自体がブルジョア社会の基礎である」(Grundrisse, MEGA,Ⅱ/1・1,S. 246)関係と対応して,剰余価値をうむ価値という資本のシンプルな規定は,金本位制度にしめる中央銀行の金属準備の役割と同様,『資本論』の名実ともに文字どおりの軸点である。