103号

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2 高知論叢 第103号ける担い手は旧下級藩士出身の高官であった。日本政府の官吏制度は彼らの主導によって,天皇親裁の国体精神と枠組みを母体にし,幕末西南雄藩の官僚組織を加えて1,近代官僚制度へと改編された。....

2 高知論叢 第103号ける担い手は旧下級藩士出身の高官であった。日本政府の官吏制度は彼らの主導によって,天皇親裁の国体精神と枠組みを母体にし,幕末西南雄藩の官僚組織を加えて1,近代官僚制度へと改編された。従来,日本の官僚制度史を説明するに際して,屡々マックス・ウエーバーの官僚論を援用する研究者が多く2,日本の官僚制の起源も,英米型ではなくドイツ型に類似されると言われてきた。そして日本の官僚制度の特質を,君主への絶対的忠誠,官吏身分の特権化,資格任用制度等に見いだして,「絶対主義的」なる一言で説明されてきた。しかし,明治の官僚制度は,プロイセン型軍制や法制度が移入されるはるか以前から形成されてきた。明治初年の官僚制度,すなわち太政官制は,日本の伝統的な官吏制度を編成替えしたものであった。官吏制度を企画実施した主な主流派官吏は,文官では大久保利通,伊藤博文,井上毅らであり武官では大村益次郎,山縣有朋,桂太郎らの面々であった。日本の官僚制度の基底と言うべきものは,古代からの律令制度の枠組みと,幕末西南雄藩における富国強兵型官僚制度であったが3,東洋における官僚制の系譜から日本の官僚制が論じられることは少なかった。明治太政官制は,疑いもなく二千年以上にわたる大陸の影響によって形成された日本的政体を基礎にして,その上に西欧の官僚制が移植されたものであり,明治初年の政体書体制がその揺籃であった。しかし,政体書体制は充分に日本の伝統的政体と官吏風土を考慮せずしてアメリカ的政体を移入したため,わずか2年余りを経て軌道修正された。明治維新後の新政府を主導した旧藩の下級官僚は,天皇親裁の下における近1 明治3年,谷干城は板垣退助に次の様な書簡を送った。「兵費緊縮兵隊減少の主旨並に板垣に贈るの書」「開成館を拡張して政府商法を盛し煉化石造の病院設立し洋医を聘し洋人を聘し学校を起し…鉄橋を架する議」谷は藩兵を削減し,県政を民政中心に移行させるべく提言した。島内登志衛編『谷干城遺稿上』靖獻社,明治45年4月325頁2 辻清明『日本官僚制の研究』東京大学出版会1969年5 月10日 伊藤大一『現代日本官僚制の分析』東京大学出版会1980年10月30日3 武官組織の典型は長州藩奇兵隊組織であり,文官組織の典型は土佐藩の開成館組織である。奇兵隊は国民皆兵の範とされ,徴兵制のモデルであった。土佐藩は藩組織を開成館に編成替する事によって,短期で藩財政黒字化を達成した。土佐開成館は富国強兵的統治組織の一つの実験であった。