104号

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8 高知論叢 第104号れ,最終決定権者はあくまで天皇である。重要事項については上奏,奏上,奏聞,御前会議において決済される。しかし,政が誤っておれば,天皇は責任を負わず“君側の奸”によるものとされた。国....

8 高知論叢 第104号れ,最終決定権者はあくまで天皇である。重要事項については上奏,奏上,奏聞,御前会議において決済される。しかし,政が誤っておれば,天皇は責任を負わず“君側の奸”によるものとされた。国政に関しては常に“君側の奸”によるものとして政権交代が行われたからこそ朝廷が維持された。(2)親裁体制の成立過程万機親裁の意味は憲法制定後と親政派が台頭する時期では異なる意味を持っていた。万機親裁は明治維新の最初の詔において明記され,維新の前提であった。ところが天皇側近の親政派,守旧派は官僚支配から脱するよう建言した。一方で官僚派も,西南戦争中において,政府が分裂することを避けるためには天皇があらゆる政務,軍務に関わり,太政官に親臨すべきであるという上奏を行った。そのために明治6年皇居火災によって皇居と太政官が分離していた事態を変え,皇居内の臨時太政官設置が実現した。明治11年参謀本部設置以降,軍からは,軍務を政務から独立させることを目的にした万機親裁の主張がなされた。参謀本部設置によって,軍事費と高官ポストの増加を目指す軍の意図があった。以上の様に「万機親裁」の建言は軍・官僚層と守旧派側近グループとも同床異夢の主張であった。『明治天皇紀』には天皇親裁をめぐる諸勢力の実像が描かれている。天皇親裁とは,維新期における詔に謳われたスローガンであり,後に中正党となる勢力が指向した親裁派にだけ与えられるものではない。天皇が成人した明治5年以降,天皇が太政官臨御を日常的に行なって“御親政あそばされるように”と,しばしば上奏される。しかしそれだけが親裁の実を挙げることではなかった。天皇による太政官臨御が毎日行われなくても,奏聞や公文上奏の書式における印を可,聞,覧に整理して,簡略化した宸裁の鈴印を行うことによって天皇親裁の実を示した。明治初年には,復古主義的親政派と開明的親裁派が共存していた。復古派が提起する親裁の実とは官僚派に対して自らの勢力の保持,拡大を意味し,思想的には欧化政策に反対する復古主義者であった。神祗官が太政官の上位にある時期は神武天皇以前であり,彼らの政治意識はおよそ時代錯誤であった。