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天皇親政体制の虚実9明治初年から旧藩士出身の官僚派は,公卿,藩主の一部,天皇側近の守旧復古派から欧風化として揶揄されつつも,神祗官を太政官の上位に据えた明治2年の復古的太政官制を改正し,廃藩置県後は復古....

天皇親政体制の虚実9明治初年から旧藩士出身の官僚派は,公卿,藩主の一部,天皇側近の守旧復古派から欧風化として揶揄されつつも,神祗官を太政官の上位に据えた明治2年の復古的太政官制を改正し,廃藩置県後は復古派を排除した。一度は天皇側近へと内訌した復古派は,天皇に上奏する権威を獲得して,明治10年から12年まで官僚派と対抗勢力となった。その要因は,皮肉にも,官僚によって天皇側近が強化された事であった。伊藤らの意図は,皇居炎上によって皇居と太政官の距離が離れたことが士族反乱,西南戦争の要因であり,太政官を移転させ天皇が太政官に親臨を容易ならしめ,かつ天皇側近を強化しようとするものであった。そのために最高実力者である大久保利通を内大臣に就任させることによって,天皇親裁を強化しようとしたのである。しかし,就任直前に大久保は暗殺されその目論見は失敗した。同時に官僚派は侍補を設置したが,そのことで,侍補,侍講による天皇側近の復古派勢力が巻き返し,彼らが天皇親政派となり官僚と対立する局面が生じた。親政派と官僚の対立は近代化政策とイデオロギーの対立を含んでいたが,その対立は,側近勢力と官僚派との権力闘争であった。後に軍内の反主流派も中正党を結成して親政派に加わる。ただし,山縣有朋を中心とする陸軍主流派は天皇の下に統帥されており,軍の統帥方針は揺らぐことがなかった。明治10年代以降,岩倉具視や侍補,侍講から親政に復する様頻繁に上奏されるようになる。明治10年の西南戦争期において天皇は25歳になり,すでに少年期を脱して成人し,親政派は実質的に政務を差配するような天皇になる事を期待した。この時期において復古主義的親政派が再び勢力を獲得する。天皇の権力は側近によって強化されたが,側近が,天皇の力を背景にして直接人事や重要な組織改革を提言し,天皇が裁可する事態となり,太政官官僚と摩擦が生じるところとなった。官僚派が天皇親裁の方策として設置した天皇側近の侍補は,官僚そのものの手で数年を経たず終了した。官僚派は大久保以後天皇側近の強化を図ろうとした。その決め手が伊藤博文内務卿の人事であった。官僚派の中で大久保利通以降,実力を持った人物は伊藤博文であり,伊藤博文は大久保の後内務卿となったが,伊藤こそ親政派を天皇から排除した人物であった。