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10 高知論叢 第104号天皇側近の元田らは,天皇に儒学,神道による教育論を説いた。天皇も「神,儒,佛のいずれにも偏せず,唯忠孝信義を以って身をたつべきを大主義とせざるべからずと力説」するところであったが,....

10 高知論叢 第104号天皇側近の元田らは,天皇に儒学,神道による教育論を説いた。天皇も「神,儒,佛のいずれにも偏せず,唯忠孝信義を以って身をたつべきを大主義とせざるべからずと力説」するところであったが,数年後の文部卿人事ではこれが容れられず,キリスト教徒や洋学者が文部行政のトップに任命されたため,天皇は反発して政務を放棄し,政務に支障をきたす事態となった。困惑した官僚派は,やがて官僚的枠組みによる天皇親裁の構築へとむかった。太政官非官僚派の最大の実力者である岩倉具視の死後,文武官官僚派によって,内閣制度の下での天皇親裁が完結し,明治22年以降憲法体制下において枢密院臨裁を中心とする天皇親裁に移行する。議会,政党は天皇親裁の政体から,排除された存在であり,政党の介入を政府から排除することが天皇親裁の主要な目標へと変化する。天皇親裁体制とは“憲法制定後に完成した,文武の高官が事務を担う元首制である”と定義することができる。政務における天皇親裁が,復古守旧派と官僚派との対抗の中で捻れて成立したのに対し,軍による天皇親裁は統帥権独立という形で早期に確立した。軍政における天皇親裁は一般行政のそれとは同一ではない,むしろ大きく異なる。従来,参謀本部条例が制定され「軍事参議院ハ帷握ノ下ニ在リテ重要軍務ノ諮詢ニ応スル所トス」とあり,これを契機として軍令部が独立したかのような理解がある。明治11年,参謀本部を軍が要求した理由は,陸軍予算の確保,軍官部のポストの増加であった。実質的な統帥権の独立はそれ以前にあった。常に現実は法整備に先んじるのが通例である。参謀本部成立によって天皇は陸軍の分裂を憂慮した事を『天皇紀』は明らかにしている。その後陸海軍主流派からはずれた四将軍ら軍反主流派が親裁派と連携して中正党を結成した。山縣派対反山縣派の派閥抗争が軍の外に飛び火し,文官における反官僚派,宮中派と連携した動きであった。軍の対立は,主流派が企てた監軍部の廃止と,参謀本部組織による支配拡大が要因であった。ただし,維新以降の軍と天皇の関係は極めて良好であり,天皇と軍は一枚岩であった。軍は天皇に軍服を着せ,さらに行幸を政治的,軍事的に利用した。天皇もまた軍の統帥者として能動的に行動した。軍の統帥権が実質的に独立した時期は参謀本部成立期より遡り,徴兵令施行期である。参謀本部は軍予算の