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天皇親政体制の虚実13において,様々な形で天皇親裁による国事行為のあり方が模索,実施され,その帰結として,内閣と枢密院,大本営による親裁が完成したと言うべきであろう。古代の天皇親政の中止,摂関家への委任....

天皇親政体制の虚実13において,様々な形で天皇親裁による国事行為のあり方が模索,実施され,その帰結として,内閣と枢密院,大本営による親裁が完成したと言うべきであろう。古代の天皇親政の中止,摂関家への委任は,近代と同様に,天皇自身によって選択されたものであるとされている。無論古代は王家の主導権をめぐる権力闘争の結果として有力豪族が実権を支配したのであるが。明治天皇による建前としての親政は,古代と同様に,官僚と側近の親裁派との主導権争いの側面もあった。しかし,内閣制度制定期から憲法制定期以降は,立憲君主制と親裁が結合され,天皇を取り巻く組織は,優れてよく整った官僚統治システムになった。従って,その後の内閣制度は官僚にとっては揺るぎないものとなった。枢密院設置までの親裁記録を『明治天皇紀』によって概説しよう。太政官制時代には,毎日天皇は太政官に出御し,政を総攬することが本来の天皇の職務とされた。大政奉還後,太政官の場所が旧摂関家九条家から二条城へ,さらに宮城に移されてから明治六年の宮城火災まで,太政官への天皇の出御,親政が原則とされた。西南戦争後,木戸孝允の上奏によって,宮城へ太政官代が移され,再び親政原則が謳われたが,天皇の職務放棄によって,毎日の出御と政務専任は数年間中断された。天皇親裁を実体化させる上で,参議は天皇の住む皇居と太政官の距離に大きな問題があるとした。皇居火災以降,太政官と皇居の距離が離れたことに政府が分裂する要因があると参議らは感じた。そのことは明治6年の政変の際に,成人した天皇の権威を利用して,分裂を収拾できなかった事を後日悔やんだ。その後彼らは,親裁の実をあげることをしばしば上奏した。天皇は明治2年,2度目の東京行幸以来,東京城は皇城と称された。ところが天皇の御座所とされていた江戸城西の丸御殿が1873年(明治6年)火災のため焼失し,天皇は赤坂離宮を仮皇居とした。それまで皇居内にあった太政官は教部省に移転し,天皇も赤坂御所内仮皇居に居を構えた。そのため天皇による太政官における執務は「毎月四度乃至六度の臨幸」であった。それでも内閣制以降はほとんど太政官臨御がなくなったので,この時期における文字通りの政務親裁は多かったといえる。伊藤博文は,西南戦争期間中の只中において以下のように上奏した。士族反