104号

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14 高知論叢 第104号乱の要因は天皇と高官の接触が少なくなったことが要因であり,「太政官を宮中に移し,君臣水魚の親しみを回復」する事が政府分裂を回避する上で重要である,太政官と皇居を隣接させ,太政官に毎....

14 高知論叢 第104号乱の要因は天皇と高官の接触が少なくなったことが要因であり,「太政官を宮中に移し,君臣水魚の親しみを回復」する事が政府分裂を回避する上で重要である,太政官と皇居を隣接させ,太政官に毎日出御されることを上奏し,裁可された。宮城はその後,1879年(明治12年)西の丸に新宮殿を造営することが決まり,1888年(明治21年)に明治宮殿が落成した。以上の事は明治太政官制時代において天皇出御による親裁が常に追求された事を示している。明治18年,機務六条を内閣と取り結び,天皇は毎日内閣に臨御せず,特別な時期にのみ出御する事となった。ただし,太政官制の時代においても,天皇が太政官に臨御し,毎日のように政が行われた時期は多くなかった。表1は『明治天皇紀』に記された太政官出御と御前会議を示す。明治初年と明治10年以後の数年において,天皇の太政官出御と御前会議の回数が多い。表2は天皇と高官の面談を示した。『天皇紀』にはいずれも概数しか知り得ないが大臣,親王と毎日面談し,参議,軍幹部とは3日に1回程度面談と記されている。太政官への出御がなくても天皇の政は毎日続けられていたといえる。明治初年と明治10年以後の数年において,天皇の太政官出御と御前会議の回数が多い。『天皇紀』には大臣,親王とは毎日のように面談し,参議,軍幹部とは3日に1回程度面談していることが記されている。太政官への出御が毎日でなくても天皇の政は毎日続けられていたといえよう。『天皇紀』と『太政官沿革志』の親裁に関する記述はほぼ一致している。ただし,『天皇紀』の記述には侍従による日誌は含まれていない。表3,図1・2に上奏者と職務別上奏件数を示した。明治維新以降の太政官制時代において,天皇は毎日太政官への出御し,政を総攬することを本来の天皇の職務とされた。内閣制度によって機務六条を内閣と取り結び毎日出御せず特別な時期にのみ出御する事となった。ただし,太政官制の時代においても,天皇が太政官に臨御し,毎日のように政が行われた時期は多くない。岩倉具視と三条実美は輔弼である大臣であり,上奏が多いことは当然である。上奏数は実権を有する有力参議の実力をそのまま示している。参議は太政官制では「大政を参与」するものであったが「庶務を総括し」たため明治初期から