104号

104号 page 17/94

電子ブックを開く

このページは 104号 の電子ブックに掲載されている17ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
天皇親政体制の虚実15実権は各省財政と人事を掌握する参議にあり,二人の大臣の地位は形骸化していた。そのことは天皇をして「参議兼大臣の観ありき」9と言わしめたことに表れている。官僚制の成立は各省の予算と人....

天皇親政体制の虚実15実権は各省財政と人事を掌握する参議にあり,二人の大臣の地位は形骸化していた。そのことは天皇をして「参議兼大臣の観ありき」9と言わしめたことに表れている。官僚制の成立は各省の予算と人事 政策を掌握する参議に実権が移行し,大臣の地位は弱体化した。明治10年までは大臣,輔弼である岩倉,三条以外の参議では大久保利通,木戸孝允の上奏が多く,明治10年以降では伊藤博文が多い。山縣有朋は軍政に関して明治初年以降,参議の中で最も上奏が多い。元田永孚,佐々木高行らの側近派は,明治10年以降において上奏が増加する。明治20年までは,文武官の双璧となった山縣有朋と伊藤博文の上奏数が多く,ついで側近の侍補,侍講からの上奏が多い。上奏数は憲法制定をめぐる論争があった明治13,14年が際だって多い。枢密院は,憲法第56条によって設置された,最も権威のある天皇の諮問機関であり,天皇親臨による上奏機関であった。枢密院設置により,天皇親裁の永続性が確保されるとともに,それまでの個別的親裁は制度的親裁に移行した。枢密院における審議過程は,①諮詢案提出 ②御下附案 ③審査 ④会議⑤審議 ⑥決議 ⑦上奏という順序によって天皇臨御に至る10。「枢密院御下附案文書」(国立公文書館)により,明治憲法制定以降,昭和20年,枢密院廃止までの期間における御下附案数を図3に示した。枢密院御下附案とは諮詢のために枢密院に下附された案件の中で,内閣総理大臣から聖断をあおぐために上奏した政府案件である。その数は政務の親裁を示すものであるが,軍政はこれに含まれない。軍制,軍令も除外され,枢密院の役割は一般政務に限定される。枢密院御下附案提出数は明治天皇の時代に漸増し,明治天皇の晩年にピークとなる。明治天皇の逝去後には減少するが,昭和天皇の時代には年によって大きく変動する。しかし,終戦時において,枢密院が最も重要な天皇臨御機関となったことは,ポツダム宣言受諾は枢密院の議決を待って執行されたことをみても明らかである。以下は,『明治天皇紀』第1巻から第7巻に記された,天皇の国事行為の中の特記事項のみ抜粋したものである11。