104号

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16 高知論叢 第104号(2)明治元年から明治8年の国事行為① 慶応3年1月9日(新暦2月13日),満14歳で践祚した。明治天皇以前の天皇は御所から一歩も出なかったとされているが,『明治天皇紀』にはほとんど毎日....

16 高知論叢 第104号(2)明治元年から明治8年の国事行為① 慶応3年1月9日(新暦2月13日),満14歳で践祚した。明治天皇以前の天皇は御所から一歩も出なかったとされているが,『明治天皇紀』にはほとんど毎日太政官に親臨する姿が記述されている。大政奉還からまもなく,太政官は旧摂関家から二条城に移されたことにより,天皇はほぼ毎日二条城に行幸した13。② 明治2年4月4日二条城にて万機親裁の詔を発布。その2日後の4月6日,天皇は大坂に行幸し,諸藩兵の操練を大坂城中で観兵した。これが天皇による軍への親裁行動の揺籃であった。東京に宮城が移り,以後明治3年正月から政と祭事の慣例が定まった14。天皇は軍の統帥者として閲兵することが恒例となる。軍事始めの式典,練兵の天覧が始まり,以後慣例化した15。戊辰戦役の論功行賞,将軍への恩赦,暗殺犯への罰則,高官の任用を自ら決済した16。③ 陸軍省,海軍省設置,近衛兵設置を裁可した17。天皇が行幸すべきとする陸軍からの進言,建議により以後頻繁に行幸を行い,見える天皇を演出した18。④ 征韓論争によって政府が分裂したが,岩倉具視の意見書をいれて,征韓論に反対した。⑤ 明治6年の宮城火災によって太政官は宮城の外に置かれたため天皇と太政官の距離ができた19。このため天皇親裁を実質化する事ができず,参議が分裂し,西南戦争や士族反乱の原因となった20。⑥ 明治6年の政変後に動揺した太政官を強化するために参議省卿兼任制が採用され,天皇への輔弼権限を集権化した。明治8年10月参議が省長官を兼務することについて,分裂していた参議の紛議を天皇が聖断した21。(3)西南戦争期における国事行為① 伊藤博文は明治10年8月15日に以下のように上奏した。(明治6年皇居火災以降)太政官と皇居が離れていたことが政府分裂の原因であり,太政官を宮中に移し,天皇親裁を行うよう上奏した。天皇はこれを裁可し