104号

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天皇親政体制の虚実21通常毎朝10時に太政官に臨御し,暑い時期は9時に内閣に出御し,大臣参議は天皇臨席に立ち会った。参議は11時暑い時期は10時に御前を退き,大臣や輔翼の者は午後2時まで朝廷にとどまった24。③....

天皇親政体制の虚実21通常毎朝10時に太政官に臨御し,暑い時期は9時に内閣に出御し,大臣参議は天皇臨席に立ち会った。参議は11時暑い時期は10時に御前を退き,大臣や輔翼の者は午後2時まで朝廷にとどまった24。③ 戦時において天皇は高官からの戦況報告を逐次受ける25。天皇は西南戦争を指揮するため大坂に出向き同地で病気(脚気)となる26。木戸孝允の薩摩行きを断念させる27。(4)西南戦争以降の国事行為① 征韓論,西南戦争によって,分裂した政府が統一を回復するためには,天皇親裁を実質化する建議がなされ,そのために最適任者の大久保利通が宮内卿となって天皇親裁を取り仕切る予定であったが暗殺された28。これが天皇の側近や守旧,復古派が官僚を排除し,親裁を実質化する好機として親裁運動が起こり,侍補が設置されるが,侍補の権限が強くなることを恐れた官僚はこれを廃止する29。他方,天皇は太政官に毎日親臨して,万機を親裁するような激務には耐えられず,政務精進は長続きしなかった。天皇は乗馬や飲酒を控え,引き続き親政の実をあげるよう側近から上奏が続けられる30。③ 陸軍参謀本部が設置され,軍の独立性指向,軍務聖域化傾向が強くなる。竹橋事件において参議の参内が遅れ,参議,文官の信用が失墜する。筆頭参議であった大隈重信は天皇から厳しい叱責を受け,大隈の影響力は低下した。天皇は軍人勅諭を上諭するなど軍に対する関係は緊密であり,明治15年頃までは軍装にて太政官正庁に臨御した31。④ 勤倹聖旨の詔勅32を出す。⑤ 参議と省卿兼務について上奏を受け聖断する33。⑥ 天皇は文部卿人事を始めとする太政官官僚の政策に不満を持ち人事に抵抗する34。⑦ 天皇はグラントとの忠告を聞き外債発行に反対する35。⑧ 地租米納論の建議を受け,天皇は地租米納不可の内勅を行なう36。⑨ 明治14年には天皇の軍服を着用して,太政官出御は続けられる37。