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22 高知論叢 第104号⑩ 立憲政体の建議が参議から行われる38。⑪ 侍講,侍補の上奏による太政官機構改革を天皇が裁可し39,これに官僚派が危機感をいだく。⑫ 参議や内閣の人事案件の意見がしばしば分かれ,天皇が....

22 高知論叢 第104号⑩ 立憲政体の建議が参議から行われる38。⑪ 侍講,侍補の上奏による太政官機構改革を天皇が裁可し39,これに官僚派が危機感をいだく。⑫ 参議や内閣の人事案件の意見がしばしば分かれ,天皇が聖断を下す事が多くなる40。北海道官有物払い下げ事件後,大隈重信の罷免を聖断41。元田,佐々木らは天皇が政務の実権を掌握する好機と進言するが,天皇は超然とする。参議院を設置した。陸軍定員増の上奏を受ける42。⑬ 伊藤博文宮内卿は天皇への上奏を申し込むが病気を理由にして面会を断り続けられる。天皇は太政官にも臨御せず,政府の事務に支障をきたす43。政務が激減し,天皇は乗馬に興ずる事が増える45。⑭ 内閣制度が発足し,機務六条を制定する44。天皇の太政官出御を義務化せず,親裁を内閣に委任した。岩倉具視の没後を契機として,太政官制を廃止し,内閣制度に移行した。監軍廃止論についてその長短を聖断する。憲法について奏聞する46。(5)『明治天皇紀』に記された行幸記録明治維新までの天皇は,皇居内では例に則り神事を行うが,政は摂関家に委任していた。それまでの天皇は,即位以降,終世皇居内に住み,外に出ることはなかったからである。新政府は天皇親政をめざし国民国家統合の象徴として行幸を最大限に利用した。維新後は天皇親裁の国体に復することが国是であったが,軍と国家国民統合の象徴としての天皇の存在は 維新政権の官僚が想定したものより,後にはるかに大きな役割を果たした。明治元年,太政官代が九条家から二条城に移された。従来は摂関家の下にあった太政官が初めて一定の場所に定まり,独立した庁舎を有するようになった。天皇は2月3日,3月9日太政官代がある二条城に行幸し,4月4日二条城にて万機親裁の詔を発布した。その後,4月21日太政官代は宮中に移された。そのことは天皇が政を委任せず親政を行う象徴的な契機となった。明治天皇は,明治元年7月「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を出し,江戸を東京とし,政務を執ることを宣言した。天皇は10月江戸城に入城し,一度京