104号

104号 page 25/94

電子ブックを開く

このページは 104号 の電子ブックに掲載されている25ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
天皇親政体制の虚実23都に戻るが,明治2年の東京行幸以降は東京に留まった。天皇が東京に上京する行程では,行く先々で歓迎する国民に金品を振る舞い,多額の国費を使ったことが『明治天皇紀』に記されている。特に....

天皇親政体制の虚実23都に戻るが,明治2年の東京行幸以降は東京に留まった。天皇が東京に上京する行程では,行く先々で歓迎する国民に金品を振る舞い,多額の国費を使ったことが『明治天皇紀』に記されている。特に明治元年の第1回目の東京行幸は,2ヶ月をかけてゆっくり陸路行幸し,国民にとって見ることがなかった天皇を見せることで民心の安定を演出した。2度目の東京行幸は約20日間で京-東京を行幸した。これ以降,天皇が本格的に全国に行幸する契機となったのは,明治5年2月,山縣有朋が陸軍省を代表して天皇が行幸すべきとして建議したことによる。天皇の行幸は優れて政治的,軍事的意味を持つものであった。軍の実権を掌握した山縣有朋は,明治5年,陸軍省,海軍省設置,近衛兵設置を上奏した。設置されたばかりの鎮台と県庁に行幸する事によって地方の掌握と治安対策をすることにねらいがあった。この年,天皇は大阪,京都,下関,長崎,鹿児島など西日本諸県に行幸する。西日本の不平士族の行動に軍が配慮したことが背景にある。天皇の行幸が終わった後,山縣は徴兵令を建言した。天皇の行幸の目的は,内政における治安維持,民心掌握にあった。そのことは第1に,軍による上奏によって行幸が始まったこと,第2に,行幸の時期が内政が不安定な時期に長期行幸が多くなっていることによって確認できる。明治天皇の行幸は,以下のような事件,事変があった時期に多い。1.戊辰戦後における東征の時期,2.徴兵制施行と鎮台設置,3.西南戦争期4.明治13年の政変後,以上4つの時期において行幸が多い。特に西南戦争時においては脚気の病をおして指揮をとるべく大坂に行幸した。また開拓使払い下げ事件の問題がくすぶる時期には東北,北海道に行幸した。図4・表4は,明治初年以降における毎年の行幸日数を示した。短期行幸は1日の事が多く,短期行幸は1回を1日として計算し,長期行幸を日数として集計した。