104号

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30 高知論叢 第104号によって執行した。古代中国から移入した日本の伝統的な制度に,プロイセンの例を咀嚼したものであった公文式,公式令において,詔書・勅書,法律の裁可,予算の公布,国際条約,外交文書,官記....

30 高知論叢 第104号によって執行した。古代中国から移入した日本の伝統的な制度に,プロイセンの例を咀嚼したものであった公文式,公式令において,詔書・勅書,法律の裁可,予算の公布,国際条約,外交文書,官記,爵記,勲記の形式が定められた。内閣制度成立までの太政官制下における親裁は,太政官における毎日の天皇臨御を原則とした親裁であったが,内閣制度設置後,臨御を原則とせず,憲法制定後は枢密院臨御による御前会議開催が制度化された。憲法体制において,御前会議は最高の国家意思決定会議として官制に定められた。明治憲法制定時における天皇親臨が定められていた御前会議は,枢密院会議だけであったが,以後,天皇臨席の大本営会議,天皇・元老・閣僚・軍部首脳の合同会議も御前会議となった。大本営設置後の御前会議は,1894年の日清戦争決定が最初であり,三国干渉,日露戦争などにおいて開催された。昭和期における御前会議の構成員は天皇,内閣総理大臣,国務大臣,枢密院議長,枢密顧問官,参謀総長,参謀次長,軍令部総長,軍令部次長,宮内大臣である。明治天皇は日清・日露戦時前に於いて開戦の詔勅を出した。昭和天皇に至るまで,天皇はいずれの開戦の詔勅において,“平和を克復”すると述べている。これは天皇が平和を希求したと主張する者があるが,開戦詔勅の際における中国古代皇帝以来の決まり文句であった。日清戦時の詔勅「事既ニ茲ニ至ル,朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ,汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス」日露戦時の詔勅「事既ニ茲ニ至ル,帝国カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル将来ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ,朕ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」日米開戦の詔勅「抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル,皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ」明治天皇による日露開戦前の歌とされた「四方の海みな同胞と思う世になど波風の立ちさわぐらん」これは天皇が平和を希求する象徴的な歌として昭和天