104号

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天皇親政体制の虚実35の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し,好まざる所は裁可しないとすれば,之は専制君主と何等異なる所はない。」58と述べた。9....

天皇親政体制の虚実35の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し,好まざる所は裁可しないとすれば,之は専制君主と何等異なる所はない。」58と述べた。9月6日の御前会議における昭和天皇の行為の真偽は当事者以外に知るよしもないが,近衛文磨以外は誰も語っていない。彼らが戦後東京裁判を念頭にして「四方の海」伝説を利用して物語を作った可能性が大きい。作為者は近衛文磨,木戸幸一であろう。天皇は自らの過去について「近衛の手記に詳しく出て居る」としか述べていないことは,これが作為者の物語であったことを暗に示したものである。(2)『昭和天皇独白録』と親裁『独自録』における天皇の弁明は,戦後極東軍事裁判を念頭にしたものであり,親裁としてのそれまでの常識とは異なる発言であった。しかし昭和天皇は常に国家元首として,憲法の条規によりて平時において統治権を総攬し,かつ戦時大本営条例の下では政府と軍トップとして親裁してきた60。日中戦争は,日本の外交上,戦争とは称することはできなかったために戦時大本営条例は廃止され,戦時以外に事変でも設置可能にした大本営令(昭和12)によって,1937年11月20日大本営が設置され,1945年9月13日まで合計7年10ヶ月間大本営は存続した。大本営設置期間だけではなく,昭和天皇が即位した直後の昭和3年に張作霖爆死事件が生じ,これ以降満州事変,日中戦争に繋がった。昭和天皇にとって終戦までの総ての期間が戦時体制であった。大本営会議には天皇御臨席の大本営御前会議と,政府と統帥部首脳との大本営政府連絡会議に臨席する場合がある。国策は政府の要求で設けられた大本営政府連絡会議で事実上決められたが,重要な国策は,天皇が出席した御前会議に諮られる慣習になっていた。近衛内閣時代の昭和15年11月28日から,大本営政府連絡懇談会になり,小磯内閣時代の昭和19年8月には,最高戦争指導会議となった。大本営設置から廃止されるまで御前会議は15回開催されたとされている。御前会議は平均すると2年に1度しか開催されておらず,前述の明治初年に比べるとはるかに少ないが,天皇が親臨した場の決定は不動の国策に