104号

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36 高知論叢 第104号なった。昭和天皇が,戦後語った『昭和天皇独白録』61は残存する天皇の記録のごく一部に過ぎないであろうが,その中においても統治権の総覧者であり,かつ大元帥としての役割を果たしたことを自....

36 高知論叢 第104号なった。昭和天皇が,戦後語った『昭和天皇独白録』61は残存する天皇の記録のごく一部に過ぎないであろうが,その中においても統治権の総覧者であり,かつ大元帥としての役割を果たしたことを自ら語っている。同書の結論として,天皇は「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於ける立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し,好まざる所は裁可しないとすれば,之は専制君主と何等異る所はない』62,但し,天皇は専制君主が如き振る舞いをしたことが2度だけあったと述べた。それは,天皇によると田中義一首相への辞任要求と2.26事件の処分の2つである。昭和3年,張作霖爆死事件の際,田中義一首相に対して辞任要求をした事について天皇は以下のように後日述懐した。「日本の立場上,処罰は不得策だと云ふ議論が強く,為に閣議の結果はうやむやとなって終つた。そこで田中は再ひ私の処にやって来て,この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから,私は田中に対し,それでは前と話が違ふではないか,辞表を出してはどうかと強い語気で云った。」63 田中義一首相は総辞職し,その後の心労で他界した。田中の同情者は“重臣ブロック”“宮中の陰謀”といういやな言葉が生まれ,恨みを含む「一種の空気がかもし出された。二.二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。この事件あって以来,私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した。」64 また,2.26事件について「私は田中内閣の苦い経験があるので,事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが,この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた」65と述べた。天皇自身による“2度だけの過ち”は,天皇親裁による人事権の行使であり,かつ反乱軍への極刑命令であった。ところが,『昭和天皇独白録』では天皇親裁による統帥権の行使,統治権の総攬が日常的に行われたことを自ら語っている。以下に親裁に関して,天皇自身の発言の中から注目すべき事項を挙げた。以下の引用はいずれも『昭和天皇独白録』による。