104号

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2 高知論叢 第104号深めたという歴史認識がその背景にある。もとより天皇親政とは神武紀,崇神紀の伝説である。明治政権が帰着した政体は親裁というべきであった。しかし,明治初年の公式文書においても,親裁と親....

2 高知論叢 第104号深めたという歴史認識がその背景にある。もとより天皇親政とは神武紀,崇神紀の伝説である。明治政権が帰着した政体は親裁というべきであった。しかし,明治初年の公式文書においても,親裁と親政の文字が混在している。戊辰戦争は親征詔によって始まり,東幸(東京奠都)の目的が親政のためとされ,『太政官沿革志』でも親政体制と称した。一方で奠都詔には「朕今万機親裁」とある。軍は天皇を大元帥とする親征集団として,徴兵令以降実質的に独立した。軍が実質的に独立して以降,宮中派は親政運動を行い,後述のように岩倉具視,三条実美を通じて親政に関する上奏をしきりに行った。憲法制定以降,文官官僚派は憲法体制に天皇親裁を包摂したが,親政と考える勢力は昭和まで存続した。親政かあるいは親裁かという国体論は,文武官,官僚派と親政派の中で玉虫色の形で決着した。国体論は後の近代史の中で内訌し,親政への回帰をめざす昭和維新運動となった。明治憲法体制の天皇,特に明治天皇,昭和天皇による統治権総攬,大元帥という存在は名目的な存在であり,実態は百官分任,多元的統治形態による立憲君主制であったとする見方がある。そのような曲解を生じさせた所以はGHQの戦後処理にあり,日本の伝統的な政治決着である,君側の奸臣に非を求めた事にある。君側の奸臣に非を求めて王制を存続させる方法は東洋の伝統でもある。ところが君側の奸臣の共同謀議として決着した極東軍事裁判は,その後遺症を日本に残した。そして,維新のスローガンであった天皇親政の実態が明らかにされないまま歴史の闇に葬られた。親政と親裁は明治初期においてもほぼ同義に用いられていたが,現世における政の総てに渉って天皇親らが行うことのみを親政と言うならば,親政は日本の歴史上行われた事がなかった。一方で,最終決定の聖断のみを天皇親ら行うという意味において,明治以降の朝廷と行政政府は,大正期を除き,あくまで親裁を追求してきた。天皇親裁が適切な用語である。政府の事務が肥大化した時期において,天皇がすべての政に関与するかのような親政は不可能であった。憲法制定以降における天皇親裁を支えた者は,内大臣,内閣総理大臣,その他国務大臣,元老,侍従武官,陸海軍大臣,参謀長,軍令部長,侍従長,枢密