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天皇親政体制の虚実45東条英機には厳しい歌であったが,その後拉致されていく高官には,京都帝国大学における河上肇の教え子であった,木戸幸一,近衛文麿も含まれた。戦後極東軍事裁判の弁明に努めた軍以外の高官達....

天皇親政体制の虚実45東条英機には厳しい歌であったが,その後拉致されていく高官には,京都帝国大学における河上肇の教え子であった,木戸幸一,近衛文麿も含まれた。戦後極東軍事裁判の弁明に努めた軍以外の高官達は,軍の独走を止められなかったと皆一様に弁明をした。近衛文麿の手記がその最たるものであった。極東軍事裁判の罪状である共同謀議は満州事変以後の高官の罪状を問うものであったが,調査した検事は明治維新以来の天皇親裁の事実を理解できなかった。日本の国論も軍が政治を支配したという世論で一致した。サミュエル・P・ハンティントンによる『軍人と国家』68 では日本軍はナチスと同様に極めて政治的な軍であるとする評価を行った。しかし,現役武官が大臣を務め,軍が内局を含めて軍衙とするが如き力を有したが,官僚が強い政治力を有したことは,他の部局,例えば外務,大蔵,文部,などとも同様であった。ただし大本営設置時においては国家財政の過半を超える規模となり,軍が国家財政を支配したことは事実であった。職業軍人である軍高官は,命を賭して国家と天皇に忠義を尽くす究極の国家公務員であり,彼らが共謀して国家を支配しようと意図する様な集団ではなかった。シビリアンコントロールが機能しなかったのは,彼らの責任にあるのではなく,日本の憲法の運用と諸法令,官僚制度そのものに要因があった。皇軍の高官の中で象徴的な2人の軍人がいる。東条英機と山下奉文であり,ともに終戦後内外で絞首刑に処せられた。ただし,天皇と両者の距離は大きく異なっていた。山下奉文は海南学校,旧制海南中学校出身である。海南学校は,旧土佐藩主山内豊範が土佐の幹部を養成するために山内家邸内に設けた海南私塾創立が起源である。植木枝盛など後の民権派となる少壮も同校に入学していた。海南学校初代事務総督には西南戦争に軍功があり,後に陸軍中将,陸軍士官学校長を勤めた谷干城が就任した。同校は政治に付和雷同しない,質実剛健を旨とする教育を行い,陸海軍幼年学校の予備科として,成績優秀者は同校を中退し広島の幼年学校に進むことを奨励した。幼年学校出身者は,中学校卒業から陸海軍士官学校に進学者した者の中でも,成績が優秀であり出世が速かった。海南学校から広島幼年学校,士官学校に進んだ土佐の軍人は,陸海軍の将官