104号

104号 page 48/94

電子ブックを開く

このページは 104号 の電子ブックに掲載されている48ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
46 高知論叢 第104号を数多く排出している。島村速雄(海軍元帥・大将),山下奉文(陸軍大将),永野修身(海軍元帥・大将),沢田茂(陸軍中将・参謀本部次長),久野村桃代(陸軍中将),山本健児(陸軍中将),....

46 高知論叢 第104号を数多く排出している。島村速雄(海軍元帥・大将),山下奉文(陸軍大将),永野修身(海軍元帥・大将),沢田茂(陸軍中将・参謀本部次長),久野村桃代(陸軍中将),山本健児(陸軍中将),土居明夫(陸軍中将),大谷幸四郎(海軍中将),山崎重暉(海軍中将),横山一郎(海軍少将)など多くの将官を排出した69。彼らは子供の時から決してエリートや富裕層の子弟ではなく,その多くが貧しい農村の出身の2・3男であり,沢田3兄弟の様な貧農の母子家庭の子弟もいた。高額な学費の旧制中学校を1年で中退して,学費がより安い陸海軍幼年学校に進学するコースは,親の負担を軽減させる親孝行の意味があった。また高知周辺の同じ村から複数将官になっている。これは目標となる先輩が近くにいたからである。山下奉文は高知県山間部の長岡郡大杉村出身であり,広島陸軍地方幼年学校,陸軍中央幼年学校,陸軍士官学校(18期),陸軍大学校(28期)卒業後,スイス,ドイツに留学し,帰国後,陸軍省軍事課長,軍事調査部長等を歴任した。山下は皇道派と見なされ,2.26事件では皇道派決起部隊に理解を示すような行動をしたと見られていた。決起部隊が反乱軍とされることが決まったとき,山下の説得で反乱軍は自決を覚悟した。2.26事件後の旧皇道派と見なされた荒木貞夫,山下奉文は軍中枢に残ることができなかった。山下は第25軍司令官としてマレー作戦を指揮し,マレー作戦の成功で山下は国民的な英雄となった。開戦直後,マレー・シンガポールを短時日で攻略し,パーシバル司令官を降伏させた山下はシンガポール攻略という戦績をあげた。山下奉文は満州に配置された後,フィリピンの防衛戦を指揮したが,山下が主張したルソン島での決戦を行うことはできなかった。山下の作戦は容れられず,輸送船の大半が撃沈され,山岳地帯持久戦に追い込まれて,昭和20年9月フィリピンで降伏した。レイテ決戦の戦いに関して,昭和天皇は「『レイテ』が失敗した時,国内には,之が天下分け目の戦といふ言葉が流布せられ,国民の士気は消沈した…山下は比島を守らうとする,恐らく之が一番良かったゞらう」70 山下の作戦を執るべきだったと後悔した。