104号

104号 page 49/94

電子ブックを開く

このページは 104号 の電子ブックに掲載されている49ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
天皇親政体制の虚実47陸軍士官学校では山下奉文は東条英機の1期後輩にあたる。陸軍大学校も1期後輩である。統制派のリーダーであった永田鉄山は陸軍士官学校卒業の16期首席であり,山下の2期先輩,東条の1期先輩....

天皇親政体制の虚実47陸軍士官学校では山下奉文は東条英機の1期後輩にあたる。陸軍大学校も1期後輩である。統制派のリーダーであった永田鉄山は陸軍士官学校卒業の16期首席であり,山下の2期先輩,東条の1期先輩であった。マニラの法廷での山下は戦犯として軍事裁判にかけられ,シンガポール華僑虐殺事件,マニラ大虐殺等の責任を問われ,死刑判決を受けた。1946年2月23日に絞首刑が執行された。昭和34年,処刑された他のBC 級戦犯とともに靖国神社に合祀された。山下奉文は東条英機から嫌悪されていたといわれ,軍中枢として道絶たれたが,その理由は東条が反対したからだと昭和天皇は語っている。天皇は昭和19年東条陸軍大臣の後任人事に杉山元を裁可したが,これを三笠宮が支持した。その経緯について天皇は「東条は山下の果断が東条人事を覆す事を恐れて,之に反対し,自分が留任すると云ひ出した」71 東条はよほど山下を嫌い,昭和天皇も2.26事件の怨恨を山下に強く持っていた。昭和天皇は昭和19年に至るまで,山下の御目見得を一度も許さなかった。山下奉文は軍功も特筆すべきものがあるが,遺書も見事であった。 「私の不注意と天性が閑曼であった為,全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります…ポツダム宣言によって日本が賢明ならざる目論見によって日本帝国を滅亡に導いた軍閥指導者は一掃され,民意によって選ばれた指導者によって平和国家としての再建が急がれるでしょうが,前途益々多事多難なることが想像されます。建設への道に安易なる道はありません。軍部よりの圧力によったものとは云えあらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十箇年の体験は必ず諸君に何物かを与えるに違いないと思います。新日本建設には,私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人或は阿諛追従せる無節操なる政治家,侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません。」東条英機は1884年(明治17年),東京市に東条英教(陸軍中将)の三男として生まれた。英機の父英教は陸大の一期生を首席で卒業したが出世が遅れ,反山