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48 高知論叢 第104号縣・長州閥の怨念は英樹に受け継がれたと云われる。東条は永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたといわれている。永田亡き後,2.26事件が勃発したときは,関東軍内部での混乱を収束さ....

48 高知論叢 第104号縣・長州閥の怨念は英樹に受け継がれたと云われる。東条は永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたといわれている。永田亡き後,2.26事件が勃発したときは,関東軍内部での混乱を収束させ,皇道派の関係者の検挙に功があった。皇道派が一掃された後の陸軍で頭角を表し,同年12月に陸軍中将,関東軍参謀長に就任する。1940年から第2次近衛内閣,第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた。木戸幸一内大臣は,主戦論を唱えた東條を後継首班に推挙し,天皇の承認を取り付け,対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく,また東条は天皇の意向を絶対視する人物であった。天皇は木戸の東条推挙の上奏に対し,虎穴にいらずんば虎児を得ずだねと,答えたという事を木戸は証言している。しかし,天皇の積極的関与があった事は間違いないが,真相は誰も語らない。東条は,天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢をただちにあらため,外相に対米協調派の東郷茂徳を据え,いったん帝国国策遂行要領を白紙に戻す。さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について,すぐにということではなく,中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の二つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては,日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており,日本側としてはかなりの譲歩であった。山下奉文が絞首刑になった1年後,東条英機も極東軍事裁判を経て絞首刑となった。以下に東条英機の遺書の一部を引用した。「天皇陛下に対し,又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。元来日本の軍隊は,陛下の仁慈の御志に依より行動すべきものであったが,一部過ちを犯し,世界の誤解を受けたのは遺憾であった。…此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如く大きな恩は忘れられぬものである…最後に,軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確(か)に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。」東条英機が遺書で述べた「我が国従来の統帥権独立の思想は確(か)に間違っ